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第117話「借りた回線」
◆ ◆ ◆
【中間層・白い廊下】
白い廊下は、静かすぎた。
壁も床も、距離感を奪う白で塗り潰されているのに――今夜は、そこに“重さ”だけがある。
世界が揺れている。
揺れが増えるほど、ここは薄くなるはずなのに。
逆だ。揺れが増えるほど、白が硬くなる。硬くなって、人を挟む。
セラは、廊下の中央に立っていた。
白い衣装の裾が、見えない風にわずかに揺れる。
刺繍の祈りの文様が光を拾い、でも十字の形だけはどこにもない。
――意図的に外した“空白”。
(橋が足りない)
(言葉が遅れるほど、混濁が進む)
こちら側の子どもたちは、現実の家族を想像して怯えている。
向こう側の大人たちは、現実の秩序のふりをした何かに追われている。
セラは静かに息を吸い、白の奥へ意識を伸ばした。
“端末”。
人が握っている小さな板。
現実に馴染んだ音と、通知と、指紋と、写真の記録。
《……借ります》
言葉にした瞬間、白い廊下の空気が一度だけざらついた。
自分の輪郭が、少し薄くなる。
形を保つための“余白”を、回線に回す。
(長くは無理)
(でも、今夜だけは)
◆ ◆ ◆
【現実世界・転移現場/駅前跡地】
駅前だったはずの場所に、森と崖がある。
木崎は規制線の外で、カメラを構えたまま空気を読んでいた。
逃げる人。怒鳴る警官。泣く子ども。
それを撮る自分。
全部が現実なのに、景色だけが“現実じゃない匂い”をしている。
その時、ポケットのスマホが震えた。
知らない通知音。短い一回。
木崎は眉をひそめて画面を見る。
《接続要求》
差出人:――表示なし。
通話でもない、メッセージでもない。
なのに、画面が“応答”を求めている。
「……は?」
指が勝手に動きそうになって、木崎は一拍だけ止めた。
こういうのは危ない。
でも、この状況で“危なくない”ものなんてない。
木崎は舌打ちして、応答を押した。
スピーカーが、かすかに鳴る。
ノイズ。白い砂を擦るみたいな音。
そして――女の声。
《……木崎透さん》
一瞬、背筋が冷えた。
名前を呼ばれる温度が、普通じゃない。
《……木崎透さん》
一瞬、背筋が冷えた。
ただ――“知らない声”ではない。
砂を擦るみたいなノイズの奥、その落ち着いた抑揚。
何度か、境界の向こうから割り込んできた声。
「……セラか」
木崎の声が低くなる。警官の誘導の声の裏で、森がざわつく。
「今さら、俺のスマホに直で来るって……どういうつもりだ」
《はい。セラです》
《橋渡しです》
#私が明日死ぬなら
いも
238
#一次創作
眠狂四郎
590
《あなたの端末を借ります。時間がありません》
「“借ります”じゃねえだろ」
木崎は舌打ちして、周囲の規制線と森を一瞥した。
「……だが、今はいい。繋げ。ハレルとサキに」
「いったい――」
言いかけた瞬間、木崎の耳に別の音が混じった。
『……木崎さん?』
若い男の声。
ハレルだ。
遠い。体育館の反響が薄く混ざっている。
でも、確かに“向こう側”から届いている。
「……おい」
木崎は一度、息を吐いてから言った。
「生きてんだな」
『……はい。今、体育館に……』
ハレルの声が掠れている。
限界の声だ。
「サキは」
『ここにいます』
今度は少女の声。サキ。
震えているのに、言葉は折れていない。
木崎は喉の奥が一瞬痛くなるのを、乱暴に飲み込んだ。
「……よかった」
セラが間に入る。
《時間がありません》
《必要な情報だけ》
「分かってるよ」
木崎は周囲を見た。
規制線。森の崖。遠くの叫び声。
そして、黒い影――さっきより“増えてる”気配。
「現実は、地獄だ」
木崎は短く言った。
「学園だけじゃない。駅前も、商業施設も、森になってる。崖もできてる」
『人は……』
ハレルが息を飲む。
「逃げてる。黒い影が出てる」
木崎は言葉を噛み砕く。中学生にも伝わるように。
「人に取り憑く。半分黒くなる。口から“助けて”と“世間話”が交互に出る。
警官は撃てねえから、テイザーだ。さすまただ。ロープで縛ってる」
サキが小さく息を呑む音がする。
『……そんな……』
「国も動いてる。警察も自治体も、今は全部“特別”ってやつで回し始めてる」
木崎は付け足した。
「だから、“忘れられてる”わけじゃない。探してる人間もいる。……俺もだ」
ハレルが一瞬黙って、やっと言った。
『……ありがとうございます』
木崎は「礼言ってる場合か」と言いそうになって、やめた。
今、礼を言えることが救いだ。
『木崎さん……父さんは』
ハレルが言いかける。
木崎の指が一瞬固まる。
セラが先に割り込んだ。
《そこは、今は》
《まだ、言葉にしないで》
“確定”を避ける言い方。
木崎は舌打ちして、話を戻す。
「ハレル。そっちはどうだ」
『……兵士と……術師が来て、守ってくれてます。
でも、門番が一人いなくなったって……』
「消えた?」
木崎の声が低くなる。
『……はい。どこに行ったか分からない』
『嫌な予感がするって……アデルさんが』
木崎は周囲の森を見た。
自分の足元の影が、妙に濃く見える。
「嫌な予感ってのは、たいてい当たる」
セラの声が、少しだけ遠くなる。
《……回線が焼ける》
《長く繋げない》
「分かった。じゃあ最後に一個だけ」
木崎は早口になる。
「外に出るな。窓を開けるな。
“好奇心”で死ぬやつが出る。――先生にも言え」
『……言います』
ハレルが即答する。
「サキ」
木崎は名前を呼ぶ。
「スマホ、無駄に触るな。残量は命だ」
『……はい』
サキの声が小さくなる。
『でも……必要なら、使います』
「それでいい」
木崎は短く言った。
「迷って死ぬよりマシだ」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・器具庫前】
ハレルはスマホを握ったまま、息を吐いた。
体育館のざわめきが、少しだけ落ち着いている。
情報が届くと、人は“想像だけの地獄”から一歩出られる。
教頭が近づき、声を低くする。
「……今のは?」
ハレルは一拍だけ迷って、言い方を選んだ。
「現実で、俺たちを知ってる大人です。
こっちを探してる。……現実は、混乱してる」
先生たちが顔を青くする。
でも、叫ばない。
叫ぶと生徒が崩れると分かっている。
「じゃあ、保護者は」
「捜してる人もいる。国も動いてる」
ハレルは噛み砕いて言った。
「だから今夜は、ここを守る。勝手に外へ出ない」
その言葉が、先生たちの背骨になる。
「分かった」
担任が頷いた。
「全職員、夜間体制を組む。生徒を小グループで固める。水と毛布の配分を――」
サキがスマホを握り直す。
残量表示が目に入って、喉が鳴る。
使えば減る。
でも、使わないと守れない。
《……よくやりました》
セラの声が、かすかに耳に触れた。
《でも、私は薄くなっています》
《次は、もっと短い》
ハレルが唇を噛む。
「……セラ、ありがとう」
《礼はいりません》
《橋は、まだ保ちます》
その瞬間、スマホのスピーカーが、砂を擦る音に戻った。
回線がちぎれる。白いノイズだけが残る。
◆ ◆ ◆
【現実世界・転移現場/駅前跡地】
木崎の通話は切れていた。
画面は暗く、通知も消えている。
まるで最初から何もなかったみたいに。
――なのに、ポケットの中が妙に冷たい。
木崎は顔を上げた。
崖の縁。森の影。
そこで、ぴょん、と黒いものが跳ねた。
猫みたいに軽い。
でも毛並みがない。煤の塊。
尻尾の先に、青白い文字列がひらひら漏れる。
木崎の背中が冷える。
「……来てんのかよ」
猫影は一度こちらを向いたように見えて、次の瞬間、森の奥へ消えた。
跳ねた先だけ、空気が薄く揺れた。
規制線の向こうで警官が叫ぶ。
「危ない! 下がってください!」
木崎はカメラを握り直し、ゆっくり後退した。
心臓が早い。
でも、目は離さない。
(ハレル……サキ……)
(こっちはこっちで、止めるしかねえ)
スマホが、もう一度だけ震えた気がした。
だが画面は点かない。
震えは、ポケットの内側――自分の皮膚の方から来た錯覚だった。