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Side佐久間
気づけば、彼女はずっと黙ったままだった。
小さなカフェの片隅。窓から射し込む午後の光が、テーブルに置かれたカップの影をゆっくり伸ばしている。
かすかにミルクの香りがして、春の終わりが近いことを思い出させた。
「……ごめんね」
沈黙を破ったのは、彼女だった。
柔らかい声で、でも、どこか遠くから聞こえるような温度のない言い方だった。
俺は一瞬、聞き間違いかと思った。でも彼女の表情が、すべてを物語っていた。
「え、なにが?」
口が勝手に動いた。
わかってるはずなのに、問い返さずにはいられなかった。
「……別れたい」
目の前のコップに視線を落としながら、彼女はそう言った。
何の感情も混じっていない声。静かで、決定的だった。
「え、な・なんで?」
彼女は少しだけ困ったように眉を下げて、けれど答えを濁したりはしなかった。
「佐久間くん、優しいし、一緒にいるのは楽しかった。でも……たぶん、私のこと、ちゃんと見てないよね」
心臓が、きゅっと痛んだ。
「私じゃなくて、誰か“他の人”を見てるみたいだった。ずっと最初から。……ごめんね。言うの遅くなって」
“他の人”。
胸の奥にしまい込んでいた記憶が、じわりと滲んでくる。
あの頃の夕焼け、制服の背中、笑い声、ぬるいジュースの味。
もう何年も前の、あの人のことを。
そうだった。
俺はあの人を忘れられないまま、恋愛をしてるフリをしてただけだったんだ。
好きになろうと努力して、優しくして、いい恋人でいようとして、でもどこかで「この人だったら、あの人に似てるかもしれない」とそんなことばかり考えていた。
初恋のあの日から、うまくいった試しなんて一度もなかった。
「……そうかもね」
搾り出すように答えると、彼女はうっすら微笑んだ。
きっともう前を向いているんだ。佐久間だけが、時間の中に取り残されてる。
「ありがとう。正直に言ってくれて。……俺、たぶん、まだどこかで逃げてた」
彼女は軽くうなずいて、コーヒーに口をつけた。
これが最後の会話だと思うと、世界が少しだけ静かになる。
店を出たあとは、何をしていたのか覚えていない。
風が肌寒くて、花粉が舞っていて、信号を渡ったときにふと涙がにじんだ。
恋が終わるときって、音がしないんだなと思った。
――――――駅までの道は、いつもより長く感じた。
左手には夕焼けがかかっていて、街灯がうっすらと点き始めている。
人通りはまばらで、春の風がジャケットの隙間から入り込み、体の芯をそっと冷やす。
足元ばかり見ていたせいか、数回つまづいた。
何かを考えていたような気もするけれど、何も考えていなかったような気もする。
別れた、という事実だけが、頭の中で空回りしていた。
彼女の言葉は正しかった。
でも、正しいってだけじゃ、どうにもならないこともあるんだな、と思った。
そう思っても、やっぱり自分が悪いのだと結論が出てしまうあたり、俺はずっと変われていない。
ふと、胃の奥がきゅる、と鳴いた。
「……あ」
信号待ちの途中で足を止める。
胸のあたりが重くて息苦しいのに、どうやらお腹だけはちゃんと生きているらしい。
「こんな時でも……お腹って減るんだな」
誰に聞かせるでもなく、ひとり呟いた声は、歩道の空気に溶けて消えた。
自分の声がこんなに無力に響いたのは、いつぶりだろう。
情けないような、滑稽なような気がして、ちいさく笑った。
なんだよそれ、って。
そのまま帰ってもよかったのに、気づけばスーパーの前で足を止めていた。
白く光る自動ドアが開くと、冷房の空気と混ざった惣菜の匂いが一気に鼻をくすぐる。
チキンカツ、焼きそば、鮭の塩焼き。
どれも家庭の味には届かないけど、「なんでもいいから何か食べなきゃ」って思わせる匂い。
「安くなってるかな……」
かごを取るときに、また独り言が出た。
誰もいないのに、そうやって言葉を紡いでいないと、心の中が空洞になってしまいそうで怖かった。
手に取ったのは、半額シールの貼られたハンバーグ弁当。
おまけのように入っていたナポリタンとブロッコリーが、なぜかやけに鮮やかに見えた。
「……どうせ一人だし、これでいいか」
その言葉に、少し自嘲の笑みを浮かべてレジに並ぶ。
買い物袋を片手に店を出ると、空はもう夜の気配を纏っていた。
家までは、あと数分。
でも今日は、その数分すら、やけに遠い。
ビニール袋を下げた手が、少しだけ重たく感じる。
帰り道、街のネオンが足元を照らしていた。
ヘッドフォンをしているわけでもないのに、世界の音がどこか遠く聞こえる。
人の話し声、車の走る音、風が木の葉を揺らす音。
すべてが、フィルター越しのように鈍く、現実感に欠けていた。
心が空っぽのときって、こんなふうになるのかもしれない。
今日の夜は、弁当を食べて寝るだけだ。何も考えず、早く、忘れたい。
そう思いながら交差点を渡ろうとしたときだった。
「失礼します今お時間よろしいでしょうか?」
不意にかけられた声に、思わず足を止めた。
振り返ると、そこには黒いスーツに身を包んだ長身の男が立っていた。
白いシャツの襟元はきっちり留められ、ネクタイも乱れひとつない。
どこか営業職っぽい雰囲気だが、その目の奥には奇妙な落ち着きがあった。
「……誰ですか?」
警戒心を込めて問い返すと、男はポケットから名刺をすっと差し出してきた。
表には、銀色のロゴと「株式会社クロノス 技術広報部 田中」の文字。
「弊社では今、“理想の恋人アンドロイド”の一般モニターを募集しておりまして。ご関心があれば、ぜひお話だけでも——と思いまして」
あまりにも唐突で、正直、怪しさしか感じなかった。
知らない会社、知らない人間。しかもアンドロイド?
「……アンドロイド、って。いやまあ、確かに俺、二次元のアニメは大好きですけど……」
思わず自嘲気味に呟いた言葉に、田中はにこやかにうなずいた。
「ええ、存じております。“完璧な理想”はいつだってフィクションの中にありますから。
でも、現実にも——それを限りなく近づけることはできる。そう、我々は信じております」
さらりと返されたその言葉に、なぜだか妙に胸の奥を撫でられたような気がした。
今このタイミングでなければ、即座に断っていただろう。
けれど、今日は心が空っぽで、誰かの話を聞く余白がぽっかり空いていた。
「聞くだけなら、いいですけど」
田中はその返事に、微笑を深めた。
「ありがとうございます。では、少しだけ」
田中と名乗った男は、穏やかな笑みを浮かべながら頭を下げた。
その姿が妙に整いすぎていて、どこか現実離れしている気がした。
案内されたのは、裏通りにあるガラス張りの小さなビル。
一見するとカフェのようにも見えるその中は、静かで、無機質で、温度さえ均一に管理されているような空間だった。
誰もいない室内で、椅子に腰を下ろす。田中は慣れた手つきで資料を広げ、タブレット端末を差し出してきた。
「ご安心ください。今行っているのはあくまで試験的なモニター募集です。お名前といくつかの質問にお答えいただくだけで、登録は完了いたします」
俺はタブレットを受け取りながら、まだどこか信じられない気持ちでいた。
アンドロイド。そんな言葉、現実の世界で真顔で聞くとは思ってなかった。
「多くの方がフィクションから理想を知ります。ただ、その理想を現実に引き寄せるのが、我々“クロノス”の仕事です」
どういうわけか、その言葉が胸に引っかかった。
いまの俺は、空っぽだった。誰かに話しかけられるのも、案外悪くなかった。
ましてや“理想の恋人”なんて言われたら、少しくらい興味を持ってしまっても仕方ない。
タブレットに映った画面は、アンケート形式になっていた。
最初は簡単な質問が並んでいる。
・お名前(ニックネーム可)
・性別
・年齢層
・休日の過ごし方は?
・人と接する際、大切にしていることは?
・恋人に求めることは?
・恋人と喧嘩した時、どうしますか?
・あなたの理想の恋人とは?
「名前……佐久間。性別、男。年齢……うーん、三十前で」
独り言をこぼしながら、画面を指でなぞっていく。
休日はアニメの一気見。気が向けば映画館。
人と接するときは、できるだけ空気を壊さないように、笑わせるようにしてる。
恋人には、ちゃんと正直でいてほしい。嘘つかれるのは、苦手だ。
喧嘩したら、できるだけ笑って流すタイプ。深刻になるのが怖い。
ここまでは、わりと自然に埋まった。
けど——
最後の質問で、手が止まった。
「あなたの理想の恋人とは?」
この問いだけは、思った以上に難しかった。
今まで付き合った人たちの顔が、頭の中をよぎる。
でも、誰も“理想”じゃなかった。
どこかで、過去の誰かの代わりを求めていた。
本気で人を想うことが、怖くなっていた。
理想なんて、語れる立場じゃない。
だけど、だからこそ、心の奥底に沈めていた気持ちが浮かび上がる。
ふと、浮かんだのは——
「俺をずっと好きでいてくれる人」
打ち込んだその言葉を見て、なんだか少し、恥ずかしくなった。
でもそれが、今の俺にとっての本音だった。
寂しさとか、臆病さとか、いろんなものが滲んでいても、嘘じゃない。
「……はい、入力終わりました」
田中がそっとタブレットを受け取り、確認すると、優しく頷いた。
「ありがとうございます。すばらしい回答です。佐久間さんに最も適したモデルを、後日、こちらからご案内させていただきます」
淡々とした口調なのに、不思議と温かみを感じる声だった。
俺は軽くうなずいて、席を立った。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
さっきよりも、少しだけ空気がやわらかく感じた気がした。
―――――――――――――
出版系の仕事はいつも忙しいけど、今月は特にひどい。
新しい企画が同時に三本走っていて、どれも締切が重なっている。
電話は鳴りっぱなし、メールは未読の山、企画書に赤字を入れる時間すらろくに取れない。
朝は会社に駆け込み、夜は終電ギリギリ。
帰ってきてはコンビニ弁当を流し込み、シャワーも浴びずにソファで寝落ちする日々。
疲れているという自覚すらも、どこか鈍くなっていた。
そんなある日、土曜日の朝。
まだ寝ぼけた頭で、スマホのアラームを止めてぼんやり天井を見上げていた俺は、インターホンの音で現実に引き戻された。
「……だれだよ、こんな朝っぱらから……」
パジャマのまま玄関に向かうと、ドアの前には配送業者の制服を着た若い兄ちゃんが、タブレットを差し出してきた。
「佐久間さんでお間違いないですか? こちら、大型配送になりますので、サインお願いします」
「大型……?」
首をかしげつつ受け取ると、背後から台車で運ばれてくる“それ”を見て、俺は一瞬、言葉を失った。
――デカい。
段ボール……と言っていいのか迷うほど巨大な箱だった。
人間がすっぽり入ってしまいそうなサイズ。いや、というか、**入ってるんじゃないか?**っていうくらいの異様な存在感。
「ここで大丈夫ですかー?」
配送員がそのまま玄関先にゴロリと置いていく。俺は慌てて追いかけるように声をかけた。
「ちょ、ちょっと待って! え、これなに!? 生き物とかじゃないよね!?」
「詳しい中身はちょっと……配送伝票には“精密機器・要組立”って書いてありますけど」
「せ、精密機器……?」
眉をしかめながら箱に貼られた伝票を見ると、そこには見覚えのあるロゴが印刷されていた。
「株式会社クロノス」
瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。
「……あ」
心の底に沈んでいた記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
あの夜、田中と名乗った男に声をかけられて、俺は……モニター登録……?
「いやいやいや、まさか……そんなバカな……」
自分で首を横に振りながらも、箱を見つめる視線は自然と硬直していた。
けど、どう見てもただの家電ってわけじゃない。
なにか、人の形をしてるような気すらする。まさかとは思うが、本当に“人”が——
俺は、ごくりと喉を鳴らして、思いきって箱に手をかけた。
ガムテープをはがし、段ボールをそっと開いていく。
中から、静かに現れたのは——
人。
いや、そうとしか思えなかった。
完璧に整った顔立ち。すらりとした手足。肌の質感、髪の艶、まるで芸能人の等身大フィギュア。
でも、寝てる。目は閉じていて、まるで安らかに眠っているみたいだった。
「ひっ!! 殺人事件!?」
反射的に叫んだ俺は、慌ててのけぞり、壁に背中をぶつけた。
だって、だってこれはどう見ても“遺体”レベルにリアルすぎる。
誰かが間違って、うちに人を送ってきた? いや、そんなわけない。なんのために? どんな理由で?
……でも、その時、箱の中に同封された“使用説明書”の表紙が目に入った。
《恋人型アンドロイド・A.B.01シリーズ ご使用ガイド》
目が覚めるように、記憶が蘇る。
あのときの田中、クロノス、タブレット、あの回答。
「……マジかよ……」
思わず口から漏れた声は、自分でも驚くほど間の抜けたトーンだった。
けれど、それくらい現実感がなかった。
目の前の段ボールから出てきた“それ”は、まるで人間そのものだった。
いや、どう見ても人間だった。
整った輪郭、長い睫毛、なめらかな髪、穏やかな表情。
ほんの少し頬に触れてみたけれど、温かさこそないものの、皮膚の質感は本物と区別がつかない。
静かに、息をしているようにすら見える。まるで、生きてるみたいだった。
「……すげぇ……」
思わず感嘆の声が出た。
最先端技術ってここまで進んでるのか……と、呆気に取られたその瞬間。
俺の視線は、ふとその“体”のラインに移った。
広い肩幅。なだらかに引き締まった胸元。
長く伸びた脚の付け根に目をやった時――
「……いや、男じゃん!!」
反射的にのけぞった。
「ちょっ、待て待て待て、なんで!? 俺、……いや違う、男って……うわああ!」
完全にテンパった俺は、そのまま玄関に駆け戻り、スマホを手に取る。
配送伝票にあった番号にすぐに発信した。
数コールの後、あの落ち着いた声が受話器の向こうから響いた。
「はい、株式会社クロノス、技術広報部の田中でございます」
「田中さん!? 俺です! 佐久間です! あの……届いたんですけど……」
「はい、先ほどの配送ですね。ご確認いただきありがとうございます」
「いや、あのですね……」
俺は言葉を選ぶ暇もなく叫んだ。
「男なんですけど!!届いたのが!!男!!」
少しの沈黙の後、田中の声が静かに返ってきた。
「ええ。確認しております。佐久間様、ご登録時のデータにて性別は“男性”と記入いただいておりました」
「そうですよ! だからてっきり女性型が来ると思うじゃないですか!」
「恐れ入ります。弊社の“恋人型アンドロイド”は、性別や既存の好みよりも、ご本人の価値観や心理データをもとに、“最も相性が良い”とAIが判断したモデルを、ランダムで割り出す仕組みとなっております」
「え……俺が男ってことを入力したのに……? なんで……」
「はい。性別情報は参考値として保存、および過去のパターン、感情分析などを含めた複合的な評価により、最適な個体を選出する形になっております。その結果最も合致したのが、今回の“ABモデル”です。もしお気に召さない場合には、三日以内に返品または交換のご連絡をいただければ対応いたします。ですが、初期判断には誤差もございますので、まずは一度、起動して様子を見ていただくようお願いしております」
返す言葉がなかった。
田中の言っていることは理屈として理解できる。でも、感情がついてこない。
「……分かりました……」
俺は小さくぼやいて、通話を終了した。
スマホを置いて、床にしゃがみこむ。
なんなんだよ、これ。
けれど、今さら“返品します”と簡単に言うのも違う気がしていた。
そもそも、届いたばかりの“それ”はまだ何もしていない。
ただ目を閉じて、静かに横たわっているだけだ。
――せめて、起動だけでもしてみるか。
そう決めた俺は、近くに落ちていた白い冊子を拾い上げた。
それは丁寧に製本された使用説明書で、表紙には銀色のロゴとこう書かれていた。
《恋人型アンドロイド AB-01シリーズ 使用ガイド》
深呼吸をひとつして、俺はページをめくった。
説明書の中は、思ったよりもきちんと整理されていて、まるで家電のマニュアルのように淡々と書かれている。
起動方法。
俺はその文字に指を止め、食い入るように読み始めた。
起動方法:
本体の電源を入れるには、対象者の唇との接触(キス)により、認証と起動を同時に行います。
※口唇センサーが反応しない場合は、再度行ってください。
「……は?」
思わず、声が出た。
「ちょ、ちょっと待てよ……キス……!?」
なんだそれ。意味がわからない。
せめて指紋認証とか、ボタンとか、なんかあるだろ。
なんでいきなりファーストコンタクトがキスなんだよ!
俺は説明書を手にしたまま、段ボールの中に静かに横たわる“彼”を見下ろした。
先ほどから変わらず、目を閉じて眠っているような穏やかな顔。
長い睫毛、整った鼻筋、ふわりと前髪が額に落ちていて……
こうしてまじまじと見つめると、なんというか、やたら整ってる。
「いやいやいや……男にキスって……」
誰も見ていないはずなのに、顔が熱くなる。
でも、起動させなければ何も始まらない。返品も交換も、どうするか決めるにもまずは動いてもらわないと。
……こうなったら、勢いしかない。
深呼吸をして、そっと膝をつく。
目の前には、まるで眠っている王子様のようなアンドロイド。
こんなこと、人生で一度もやったことない。二次元の世界では見たことあるけど、まさか自分がやるとは。
「……いくぞ……!」
小さくつぶやいて、俺は顔を近づけた。
震える手を膝に置き、最後の数センチを思いきって——
唇が、触れた。
一瞬、冷たい。けど、柔らかい。人間とほとんど変わらない。
ふわりと、静電気のようなものが唇に走った気がした。
その直後だった。
「——起動認証完了」
突然、低くて機械的な声が響いた。
驚いて数歩後ろに下がると、アンドロイドの瞼が静かに開かれた。
その瞳が、俺を真っすぐに捉えた瞬間——
「……え……」
息を飲んだ。
目の前にいるその顔は、あの頃の記憶の中にある“彼”と、まったく同じだった。
中学の頃、毎日一緒に帰って、笑い合って、誰よりも優しかった、あの人。
俺が初めて、本気で人を好きになった相手。
でも、何も言えないまま、突然の転校でお別れになって、それっきり会えなかった。
思い出の中にしかいないはずのその顔が、今、目の前にある。
「名前を、決めてください」
目の奥に光を宿したまま、彼は機械的にそう言った。
まるで、夢の続きにでもいるみたいだった。
頭が真っ白になって、言葉が出てこない。
けど——
気づけば俺は、小さく、囁いていた。
「……阿部……ちゃん……」
ただ、それだけを。
すると、瞳の奥にわずかに色が灯った。
「阿部ちゃん……」
その名前を繰り返すように呟いた瞬間、彼の体から淡い光がふわりと広がる。
胸元のパネルに「アップロード中」と表示が浮かび上がり、電子音が響いた。
そして次の瞬間。
「佐久間」
——その声、その呼び方、そのやわらかい笑顔。
全部、あの頃のままの“阿部ちゃん”だった。
俺はただ、呆然と立ち尽くした。
胸の奥にしまい込んでいたはずの記憶が、音もなくゆっくりと溶け出していくのを感じながら。
――――――――――――――
朝、カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
体を起こして、まだ寝ぼけた頭でまばたきを繰り返しながら、無意識に右手を伸ばす。
ベッドの脇にある棚、そこには俺の“嫁”たち——お気に入りのフィギュアたちが、変わらず整然と並んでいた。
「おはよう……」
半分寝たままの声で、いつものようにそっと声をかけたその瞬間、ふと胸の奥に違和感がよぎった。
——あれ? なんか、昨日……変な夢、見たような……。
ぼんやりと記憶をたどる。
巨大な段ボール、目覚めたアンドロイド、初恋の顔、唇の感触。
あまりに現実離れしていて、まるで映画のワンシーンみたいな出来事。
「……夢、だったのかな……」
そう呟きかけたとき、ふわりとキッチンから香ばしい香りが漂ってきた。
焼いたパンと、甘い卵の匂い。俺の知っている“朝”の香りじゃない。
こんなしっかりした朝食、久しく作ってないし、そもそもこんな香り、家からしたことすらなかった。
戸惑いながらリビングの方へ顔を向けると、そこには——
「おはよう、佐久間」
エプロン姿の男が、振り返って微笑んでいた。
金色の髪が朝日を受けて淡く光り、白い肌は透き通るように整っていて、目元にはあの懐かしい優しさが滲んでいる。
阿部ちゃんだった。
夢じゃなかった。
あれは現実で、俺の家には今、本当に“人型アンドロイド”がいる。
そしてそいつは、俺の理想——いや、“初恋”の姿をしていた。
一瞬、言葉を失った俺に向かって、彼はにこやかに言った。
「佐久間の“嫁”たちなら、もう手入れしておいたよ。ホコリが少し積もってたから、拭いて磨いておいた。順番にね。お気に入りは、奥の黒髪の子だよね?」
俺はぽかんとしながら、視線を棚に戻す。
確かに、昨日までうっすら埃をかぶっていたフィギュアたちが、どれもピカピカになっていた。
どの角度から見ても完璧に整っていて……まるで店頭展示のような仕上がりだった。
「あ、うん……ありがとう……」
反射的にそう口にしていた。
「それから、はい。朝ごはん。もうすぐ焼きたてだよ。……顔、洗ってきて?」
阿部ちゃんは、トーストの皿を差し出しながら、少しだけ首を傾げて、上目遣いで言った。
その仕草に、どこか“あざとさ”が混じっている気がして、ドキリとする。
機械だってことは分かってるのに、なんでこんなに自然なんだろう。
完璧にプログラムされた“可愛げ”に、なぜか逆らえない。
「……わかった。洗ってくる」
言うがまま、俺は洗面所に向かう。
背後からは食器の音と、パンの焼けるやさしい匂いが追いかけてきた。
鏡の前で顔を洗いながら、俺はふと思った。
これは夢じゃない。もう、“一人”の朝じゃない。
しかも目の前にいるのは、あの頃、心から好きだった——“阿部ちゃん”。
けれど、彼はもう、昔の阿部ちゃんじゃない。
目の前の彼は、俺のために作られた存在。
これは、始まりなのか。それとも、なにかが終わった続きなのか。
洗い終えた水のしずくが、静かにシンクに落ちていく音だけが、しばらくのあいだ、部屋の空気を満たしていた。
朝食のトーストは、こんがりと焼かれ、バターがじんわりと溶けていた。
横にはふわふわのスクランブルエッグと、ミニトマトとレタスの簡単なサラダ。
見た目は素朴だけど、手際の良さと盛りつけの丁寧さに、阿部ちゃんの“完璧さ”が滲んでいた。
「どう? 焼き加減とか、塩加減とか……」
少し不安げに俺の顔を覗きこむ阿部ちゃん。
その目がキラキラと光をたたえていて、つい苦笑しながらうなずいた。
「……うん、美味い。普通に、うまい」
「よかったー!」
その笑顔は、まるで犬みたいに素直で、俺は一瞬、胸がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
なんだよそれ、可愛すぎだろ……と心の中でつぶやきながら、コーヒーに口をつける。
「じゃあ、ここで朝の恒例クイズ、いってみよう!」
「……え、なにそれ」
フォークを置いた阿部ちゃんが、両手をぴょんと上げて“はい注目!”とでも言いたげなポーズをとった。
「問題です! 昨日、佐久間が寝言で言っていた単語はなーんだ?」
「え、俺、寝言言ってたの?」
「うん。しかも2回! しかも、ちょっと恥ずかしいやつ!」
「なにそれ……え、まさか“嫁”の名前とか?」
「ブブー。正解は……“あったかい”!」
「“あったかい”……?」
「うん。しかも2回目は“あったかいなぁ……”って言いながら、俺のほうに手を伸ばしてきたんだよ?」
頬が一気に熱くなった。
こいつ、寝てる俺の様子まで見てたのか……。
「べ、別にそういう意味じゃ……!」
「ふふっ。いいの、嬉しかったから」
阿部ちゃんがくすっと笑うと、朝の空気がやわらかく、温かくなる。
リビングに差し込む光が、その金色の髪にやさしく触れていて、まるで絵画のようだった。
こんな朝が来るなんて、想像もしなかった。
俺の部屋なのに、まるで別の場所みたいに感じる。
時計を見れば、出社時間が近づいていた。
急いでコップを片づけ、カバンを手に取る。
「じゃ、俺、行ってくる。帰りは遅くなるかも」
そう言って玄関へ向かおうとした、その瞬間。
「……いってきますのキスは、いい?」
振り返ると、阿部ちゃんが両手を背中に回して、少し小首をかしげて立っていた。
あざとい、あざとすぎる……! 完全に狙ってやってる……!
「えっ……いや……あの……そ、それは……」
動揺しすぎて、語尾が迷子になった。
だって、男だぞ? 相手、男なんだぞ?
だけど、目の前の阿部ちゃんは、なんというか“男とか女とか”ってくくりじゃなくて、
ただ、俺の心をやさしく包んでくる存在だった。
この数日で何が変わったわけじゃない。
けど、一緒に朝を迎えて、朝食を食べて、笑って、
それだけでなんだか“家族”に近いなにかを感じていた。
少し迷って、深呼吸して、意を決して——
「……じゃあ、ほっぺに…」
俺は少し屈んで、阿部ちゃんの左頬に、そっと唇を押し当てた。
触れたのは一瞬。
でも、その一瞬で伝わってきたのは、驚きと、あたたかさだった。
離れると、阿部ちゃんはぽかんと目を丸くしていた。
でもすぐに、ぱっと花が咲いたように笑って——
「……いってらっしゃい!」
その声は、まるで“ただいま”を待ってくれているような優しさで満ちていた。
俺はその笑顔を背に、ドアを開けた。
いつもと同じ朝のはずなのに、胸の中に、確かに何かが芽生えていた。
名前のつかない感情が、静かに、でも確かに、そこにあった。
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