自分の部屋には帰らなかった。事情を聞いた流星たちが駆けつけてくるに決まってるから。
まずすべきことはなんだろう? と考えて小野先輩に電話した。深夜の十一時。こんな時間に電話されても迷惑だろう。礼央や流星は私以外の本命の女と聖夜を共に過ごしてるそうだけど、小野先輩ならそういうことはないだろうな、という少し失礼な安心感があった。
「もしもし」
「西木です。先輩、すいません、こんな時間に」
「何かあったの?」
ありすぎて自分でもまだ整理がついてないけど、それを小野先輩に言う必要性は感じなかった。
「今から会えませんか? 大事なお話があるんです」
先輩は意外と決断力ある人だったらしくほぼ即答だった。
「いいけど、どこに行けばいい?」
「先輩、今自宅ですか」
「そうだけど」
「自宅から一番近いカフェかファミレスを教えて下さい」
指定されたのは大学からほど近い大手チェーンのカフェ。タクシーで駆けつけると自宅から一番近いというだけあって先輩はテーブル席の一つですでに待っていた。
「大丈夫?」
「何がですか」
「顔色が悪いけど」
そりゃそうだろうとしか思えない。この状況で顔色がよかったらむしろおかしい。
「私……」
「まあ座って」
「はい」
先輩の向かい側に座る。冬休みなのをいいことに伸ばし放題の無精ひげがまず目についた。クリスマスイブといっても、先輩にはほかの女と会う予定がなかったことだけは確かだ。
「温かいものでも飲んだ方がいいよ」
「ありがとうございます」
でも頭の中がぐちゃぐちゃで注文したいドリンク一つ決められない。
「先輩が飲みたいものを二つ頼んで下さい。一つは私が飲みます」
「分かった」
先輩はてきぱきと注文を済ました。ドリンクはすぐに届けられたけど、二人とも一口も手をつけない。
「それで何があったの? 僕にできることがあれば協力するよ」
「ありがとうございます」
ふとスマホの画面に目を落とすと、ものすごい数の通話やメッセージの着信があった。着信音量を0にしておいてよかった。してなかったらピコピコうるさくて話するどころではなかったに違いない。
「先輩、私、バチが当たったみたいです」
「それって、彼氏に振られたということ?」
「私に先輩以外の彼氏がいたこと気づいてたんですか?」
「うん。今日はクリスマスイブだけど、イブに会いたいっていつだったかお願いしたら、その日はちょっとって断られたよね。ほかに本命の彼氏がいるんだろうなって切ない気持ちになったのを覚えてる。ほかにも、西木さんとデートしてると、ときどき誰かに見られてるような気になるんだ。気のせいだろうと思ってそっちを見ると、確かに知らない男がこっちを見てる。そんなことが何回もあってね。でも不思議なことに見てくる男は、デートのたびに違う男なんだ」
「嫌な思いをさせてすいませんでした」
私は全然気づかなかった。小野先輩が敏感というより、私が鈍感なのだろう。
「それと……。いや、なんでもない」
「まだあるなら言って下さい」
「西木さんに交際を申し込んでOKをもらったあとの最初のデートのときだったと思うんだけど、なんか君の体がにおったんだよね。何かを隠すように大量に振りかけた制汗剤のにおいと、それとは別の何か強烈なにおい。別のにおいはそんなわけないと思ったけど、男の精液のにおいとしか思えなかった。いや、やっぱり気のせいだったかもしれない。違ったらごめん」
「嫌な思いばかりさせて、本当にすいませんでした!」
「それはできれば間違いであってほしかったかな。それが事実なら君は僕と会う前に別の男と会って、そういうことをしてたってことになるからね」
「してました」
しかも小野先輩に会う直前、連続して二人の男とセックスした。彼らはたぶんわざと私の服や下着に精液をぶちまけた。これから別の男とデートする私を困らせようと面白半分にやったのか、それともそれに気づいたデートの相手が怒って私を振ることを期待した確信犯的な行動だったのか、今となっては確かめようがないけど、その両方とも正解だという気がする。
今思い返せば自分勝手な男ばかりだった。もちろんそんな男たちにチヤホヤされて舞い上がって、好き放題にセックスさせていた私が一番悪い。さっき井原元気にサセ子だって言われたばかりだけど、自分のしたことを振り返ると、まさにその通りだったと認めるほかない。
「そのときだけ? ほかの日のデートのときもそうだったの?」
「私は先輩と交際を始める前からその男たちと交際していました。誰か一人だけに絞るべきだったのに、私は全員を同時進行させる道を選択しました。先輩とはプラトニックな交際でしたけど、ほかの男とは全員体の関係がありました。男たちにチヤホヤされて自分を見失って、私はこの半年くらいほぼ毎日誰かとセックスしてました。だからほかのデートの日も男と会ってそういうことをしてたのかと聞かれたら、イエスと答えるほかないです」
「男〈たち〉って言うけど、僕以外に何人も彼氏がいたってこと? 地味な感じの西木さんがそんなにモテる人だったなんて知らなかったよ」
「馬鹿だったんです。もともと恋人は一人いればいいって思ってたはずなのに。今日先輩に会ってもらったのは今までの私の裏切りを謝るためです。謝罪が足りないというなら先輩の気が済むまで謝ります。土下座しろというならするし、殴らせろというなら殴ってもいいです。人として間違ったことをして、何も悪くない先輩の心をひどく傷つけました。私は本当にどうかしてました」
「西木さん、僕以外の彼氏たちとはどうなったの?」
「みんなで結託して私を都合のいい女扱いしてたことが分かって、もう顔も見たくないと言って別れました」
「僕とも別れたいの?」
「別れたいというか、先輩に対する私の今までの心ない態度は絶対に許されるものじゃないと思います」
「今までの話を聞いてると君は十分に反省してるように見える。君が今までの不実な態度を改めて、これからは僕と誠実に交際すると言うなら、僕は君を許したいと思う」
「私を許す……? 先輩をずっと騙してきた私を……?」
「男たちにチヤホヤされて自分を見失って求められるままにセックスしてしまった過去の君と、そういう過去を恥じて反省して僕に謝罪する今の君と、どちらが本当の君か。君自身が一番よく分かってるはずだよ。それで西木さんは僕との交際を今改めてどうしたいと考えてますか?」
「私は――」
自分たちは好きなときに好きなだけ私を性のはけ口として利用するくせに、彼らは私が小野先輩とセックスすることは禁止して、私もそれに従った。
一番許せないのは、彼らが私に小野先輩との交際を継続させた理由だ。いつか彼らが私の体に飽きたあと、私を小野先輩に押しつけるつもりだった? よくそんな人を人とも思わない残酷なやり口を考えつけるもんだ。悪魔か!
「たとえ先輩が私を許しても、私自身が私を許せません!」
「西木さん、そんなに自分を責めなくていいんだ。分かった。この話はいったん保留にしよう」
あの十二人がひどすぎたから、比べれば小野先輩がよく見えるのは当たり前だけど、誰かと比べなくても間違いなくいい人なんだと思い知らされた。私は泣いた。先輩に対する過去の悪行の数々が許されたから泣いたんじゃない。
「どうして泣いてるの?」
「あの人たちと知り合う前に、先輩の恋人になれていれば、こんなに傷つかずに済んだのにっていう後悔からです」
「大変な目に遭ったけど、完全に目が覚めたみたいだね」
「ただ、あの人たちとは、私の方から一方的に別れを告げただけで、実はまだしっかりお別れできてないんです。絶対に私の部屋の前で待ち伏せしてるに決まってるから、今日だって自分の部屋に帰ることもできないんです」
絶対に会いたくなかった。今までだっておかしいと思ったことは何度もあったけど、そう疑問を口にするたびに、流星が現れて私をセックスに溺れさせて、すべてうやむやにされてきたのだから。
「今夜はどこに泊まるつもりなの?」
「どこかのホテルに」
「明日からは?」
「決めてないですけどたぶんホテルに」
「下手に出歩いたら彼らに見つけられてしまうかもしれない」
先輩は少し早口になってその提案をした。
「ほとぼりが冷めるまで、しばらく僕のワンルームに泊まればいい。狭くて散らかってて申し訳ないような部屋だけどね。だから僕がホテルに泊まることにするよ」
お言葉に甘えさせてもらうことにした。ただし、私の都合で泊めてもらうのに、先輩にホテルに泊まらせて無駄な出費をさせるわけにはいかないから、
「先輩はいつもどおりの場所で寝て下さい。私の寝床は雨風さえしのげれば押入れでもどこでもいいですから」
と何度も念を入れておいた。
散らかってるとは聞いていたけど、先輩のワンルームは想像以上の惨状だった。特に洗濯をずっとしてなかったみたいで、脱いだままになってる服や下着が山積みになっていた。溜まっていたのは洗濯物だけでなく、流しには洗われてない大量の食器類が、またさまざまなものが床が見えなくなるまで片づけられないまま放置されていた。
普通、男の人は彼女ができてデートするようになると、自分の部屋に彼女を連れ込むことを想定して、最低見える部分くらいはきれいに片づけるものだけど……。小野先輩らしいといえばらしいかなと微笑ましくなった。
「お世話になるので、掃除も洗濯も食器洗いも全部私がやりますから」
「いや、そんなことのために来てもらったわけじゃないから……」
先輩の抗議を無視してさっさと行動を開始した。でもちょうどよかったかもしれない。何もせずにただじっとしてたら、十二人の高校生に性欲解消のおもちゃにされていた日々のあれやこれやがフラッシュバックしてきて、きっと頭がおかしくなっていただろうから。
これは必要ですかといちいち聞きながらだから、なかなか思うようには進まなかったけど、先輩が私の指示通りに動いて手伝ってくれたこともあって、三時間ちょっとでだいたい終わりが見えてきた。
ゴミは大きなゴミ袋七袋分も出た。洗濯物も先輩のパンツだけで十枚は洗ったはず。でも干すスペースが足りないから、大きな衣類までは手が回らなかった。後日必ず洗濯して下さいと先輩に念押ししておいた。
さっきまで見えなかった床がほぼ全部見えるようになった。歩くのに余計な気を使う必要もない。
干した洗濯物が乾かないのは仕方ないとして、あとはお風呂掃除とトイレ掃除くらい。私がお風呂掃除を、先輩がトイレ掃除を済ませて、やるべきこと全部ではないけど、できることのだいたいはできたんじゃないかなって気がする。
ベッドを椅子がわりに二人で並んで腰掛ける。一仕事終えたようないい気分。でも先輩はそんな単純な気持ちにはなれなかったようだ。
「家政婦みたいなことをさせてしまって申し訳ない」
先輩はそう言うけど、私はおもしろかった。夫婦の共同作業みたいで。
まあ夫婦の真似事はできても、私の過去を知った上で私と夫婦になってくれる男がいるとは思えない。
小野先輩が交際を続けたいと言ってくれたけど、あくまで交際まででそれ以上はない。いや、私はそれ以上望んではいけない立場になったのだ。
愚かだった私は十二人もの悪い男たちの共有物となり、毎日誰かの性欲のはけ口にされて、しかもそれを愛だと勘違いしていた、というだけでも死にたくなるほどつらいことなのに、今回の件で私は純粋な被害者じゃない。
世間から見た私は数ヶ月という長期間に渡り十八歳未満の高校生十二人と代わる代わる淫行し続けた常習的な性犯罪者。三年間の時効完成後にそれが発覚した場合も、せっかく教師になれたところで問答無用で懲戒免職。すべての努力がパーだ。
「体を動かせてよかったです。あの人たちに騙されていたと知ったのはほんの数時間前のことでした。私はあの人たち共通の都合のいい女として利用されてきただけだったって、一瞬思い出すだけでもまだ胸が苦しくなります」
「失敗は誰でもあるよ」
失敗にも、取り返しのつく失敗と取り返しのつかない失敗がある。私の場合は間違いなく後者だ。少なくとももう教師にはなれない。いや過去を隠して教壇に立つことはできるかもしれない。でも淫行した過去が発覚して懲戒免職になることに怯えながら何十年も教壇に立ち続けられるほど、私の神経は太くない。
これから私はどうすればいいのだろう? 教師になるのはあきらめても、大学だけは卒業すべきか? 私はまだ二年生。まだ二年以上大学に通わなければいけない。同じ街で生活していれば、また彼らと顔を合わせることもあるだろう。どこかでばったり再会して、淫行した過去をバラされたくなかったらまた言うことを聞けと言われたらどうすればいい? 警察沙汰になれば大学は退学処分、また彼らの言いなりになれば今度こそ私の心は死んでしまうだろう――
「西木さん、顔色がすごく悪い。早く寝た方がいい」
それほど注意力があるようには思えない先輩が心配するくらいだから、相当ひどい顔をしてるのだろう。でもそのとき顔色は悪かったかもしれないけど、私の心は実に晴れ晴れとした気分だった。
「先輩、報告したいこととお願いしたいことが一つずつあります」
「言ってみて」
「私、大学を退学します。この街からも出ていって、もう二度と戻ることもありません」
「きっとまだ僕に言ってない、いや言えない何かがあって、そうするしかないということなんだね?」
「できれば言わずに済ませたかった恥ずかしい話ですけど、お別れの前に先輩だけには教えます。この半年くらいのほぼ毎日十二人の男たちが代わる代わる私とセックス――というか私の体を性のはけ口として使っていました。その十二人全員が十八歳未満の高校生だったと今日になって知りました。来年小学校の教師になる先輩なら、事態の深刻さが理解できると思います。先輩が私の裏切りを許すと言ってくれたときは本当にうれしかったです。自業自得とはいえ、もうどうしようもないんです。誰も私を救えない。私はどこか遠くの誰も私を知らない場所で、決して救われない人生を細々と死ぬまで続けていきます」
先輩はもう私に優しい言葉をかけてくれなかった。それでいい。あなたには私なんかよりずっとふさわしい人がいるはずだから。
「僕にお願いしたいことというのは……?」
「大学生活もこの街もつらい思い出ばかりになってしまいました。私は先輩が好きです。最後に好きな人に抱かれて、一つだけでも幸せな思い出を残したいって思いました。これからの人生に何もいいことがなくても、その思い出一つがあればなんと生きていけるような気がします」
男子高校生たちの精液にまみれた汚い女を抱きたくないと本心では思ったかもしれない。でも優しい先輩は私の望む返事を返してくれた。
「僕も西木さんが好きだよ」
拒絶されるのが怖くて自分から動けなかった私を、先輩は優しく抱きしめてくれた。もし先輩が童貞なら今まで童貞の子たちを相手したときのように私がリードした方がいいのだろうかと一瞬思いがよぎったけど、どうやらその必要はなさそうだった。
先輩は私をベッドに寝かせて服を脱がし、それから下腹部の敏感な部分を舐め始めた。今までさんざん高校生たちの精液で汚されてきた器官。大輔とのセックスは未遂に終わり、今日はほかの男の精液をどこにもかけられていない。先輩との最初で最後のセックスなのに、ほかの男の精液の痕跡が残っていて先輩に嫌な思いをさせるのだけは嫌だった。
「西木さん」
「詩音って呼んで下さい」
「詩音、すごく濡れてる」
よく言われます、とはもちろん言えない。
「詩音、おいしいよ」
それは初めて言われた、というのも言わない方がいいだろう。
「コンドームないんだ」
「今日は中に出しても大丈夫です」
嘘だった。たぶん今日は排卵日。もし妊娠したら先輩には知らせずシングルマザーとして出産し一人で育てようと思った。
正常位の体勢から先輩が侵入してきた。私の胸の膨らみを揉みしだきながら、経験少ない男性らしく力任せに突いてくる。でもそれがいい。私の処女を奪ったセックスが上手な男には嫌な思い出しかない。
「痛くない?」
「一生忘れられないくらい痛くして下さい!」
そう言うと、さらに先輩の動きが激しくなった。先輩はうっと唸って私の下腹部の薄い茂みに射精した。私はそれの手入れなど一度もしたことはないけど、礼央たちに言わせると私の陰毛は中学生並に薄い上に生えている範囲も狭くて、実際の年齢とのギャップに興奮するそうだ。もしかすると先輩も興奮したのかもしれない。
痩せても太ってもいない代わりに顔も含めて見た目はひたすら地味で、胸も人より目立って大きいわけでもない私のありふれた体の中で、異性に性的魅力を感じさせる唯一の、でも地味すぎて誰にも自慢できない部分がそこだった。
「中に出さなかったんですね」
「君はこれからどこか遠くの知らない場所に住むんだよね。それだけでも大変なのに万一妊娠でもしたらきっと困るはずだから」
こんな優しい人がすぐそばにいたのに、どうして私はあんな雰囲気だけで中身のない男たちに惹かれてしまったのだろう?
私が愚かだったから。愚かなんだから恋なんてしてはいけなかったんだ。すっかり臆病になった私はそれから七年間誰も好きにならなかった。
その夜、先輩は朝までベッドの中で私を抱きしめていてくれた。
そのとき、成人式のあと友達と行った風俗店で童貞を捨てて、それ以来のセックスだったと教えてくれた。次に経験する女性と、先輩が結婚するような気がします。そんなふうに私は答えた。
それからすぐ私は眠りに落ちた。大学を辞めると決断した直後なのに、一度も目を覚ますことなく朝までよく眠ることができた。
翌朝、マンションの自室には戻らず、直接新潟市外の実家までタクシーで帰ることにした。
「ありがとうございました。先輩のことは一生忘れません」
「僕もだよ。もし僕にできることがあれば……」
「先輩、もういいんです。私を甘やかさないで下さい。今回の件は自業自得です。私の罪は私にしか償えないんです」
「分かった。元気で……」
「先輩、いい先生になって下さい」
先輩はぼろぼろと涙を流していたけど、なぜか私の目からは涙が出なかった。
突然帰ってきて大学を辞めてどこか遠くで一人で住むと言い出した私に両親は驚いて、精神科の受診を勧めてきた。
マンションの退去手続きと大学の退学手続きは申し訳ないけど、母にお願いした。私が静岡県の沼津市で一人暮らしを始めたのは翌年二月。とてもとても寒い日だった。でも心の中にはまだ小野先輩がくれた温もりがあった。
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