テラーノベル
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温室でのことがあったあとも、ドラコはすぐに楽にはならなかった。
ハリーの「ごめんね」は、たしかに届いた。
あれは言い逃れではなかったし、自分の弱さを正面から認めた声だった。温室の湿った空気の中で聞いたあの謝罪は、少なくとも嘘ではなかった。
でも、だからといって胸の痛みがすぐ消えるわけではない。
ドラコはその日の夕方、自室へ戻ってからベッドに腰を下ろし、長いこと動けなかった。
窓の外はもう暗く、机の上には父からの手紙が開かれたまま置かれている。何度も折りたたみ、何度もまた開いてしまったせいで、紙の端は少し柔らかくなっていた。
ハリーの顔が浮かぶ。
温室で自分と同じ高さまでしゃがみ込み、躊躇いながら手を伸ばしてきた顔。
自分の醜さを認めながら、それでも逃げずに謝ろうとした顔。
その顔に対して、ドラコは何も返せなかった。
許してやりたい、と一瞬思った。
温室で泣いているところを見られた屈辱よりも、自分の惨めさを見抜かれたことへの苛立ちよりも、ハリーが本当に後悔していることのほうがはっきり伝わってきたからだ。
それでも口が開かなかった。
まだ痛かった。
あの中庭で受けた痛みは、思っていた以上に深く残っていた。
ハリーがわざと見せつけたことも、ジニーに向けた笑顔も、あの時自分の足元が崩れる感覚も、どれもまだ生々しい。
そこへ父の手紙が重なっている。
胸の中には余裕などほとんど残っていなかった。
だから、あの時は握られた手に少しだけ力を返すことしかできなかった。
それが精一杯だった。
部屋の静けさの中で、ドラコは深く息を吐いた。
指先で手紙の紙質をなぞる。冷たく乾いた感触がした。
監督生にもなれないとは。
期待外れにも程がある。
いったい何ならできる。
最初に読んだ時は怒りしかなかった。
いや、怒りだと思おうとした。父に対する反発。理不尽さへの苛立ち。いつまでたっても評価されないことへの憤り。
けれど一人になり、少しずつ呼吸が整ってくると、その下にあったものが見えてきた。
怒りではない。
もっと古く、もっと根深いものだった。
腹が立っていたのは、自分の不甲斐なさに対してだ。
監督生になれなかったこと自体が、父の言葉によって初めて意味を持ったわけではない。
本当はその瞬間から、ずっと引っかかっていた。自分は選ばれなかった。ポッターやグレンジャーが自然に掴んでいくものを、自分は掴めなかった。その事実を、表向きには大したことではないと片づけながら、内側ではずっと噛みしめていた。
悔しかった。
そして、悔しいこと自体がさらに悔しかった。
自分はマルフォイなのに。
選ばれる側であるはずなのに。
そう思い込んできたぶんだけ、外れた時の衝撃は深かった。
父の手紙は、その傷口に塩を塗り込んだだけだ。
痛みの大元はもっと前から、もっとずっと幼い頃から、すでにそこにあった。
ドラコは両手で顔を覆った。
何かを成し遂げても、それで安心できた記憶がない。
よくやった、と言われたことはある。
優秀だ、見込みがある、さすがだと持ち上げられたこともある。
けれど、そのたびに胸の奥へ落ちていくのは安堵ではなく、次は失敗できないという冷たい感覚だった。
褒め言葉は休息にならない。
次の採点の前触れでしかなかった。
幼い頃からずっとそうだった。
テーブルマナーを間違えないこと。
呪文学で良い成績を取ること。
ふるまいを乱さないこと。
名前に泥を塗らないこと。
正しい家の子として見られること。
一つクリアしても、それは「これで大丈夫」の証明にはならない。
ただ、「次も同じようにやれ」という命令に変わるだけだった。
だから、ドラコは生まれてからこのかた、一度も心から安心したことがなかった。
失敗したらどうなる。
足りなかったらどうなる。
選ばれなかったら。
見限られたら。
笑われたら。
置いていかれたら。
頭のどこかで、常にその問いが鳴っていた。
ハリーと一緒にいる時だけ、ほんの少しその音が遠のくことがあった。
それがどれほど貴重だったか、今のドラコにはもう隠しようもなかった。
だからこそ、怖かったのだ。
待たされたあの日、会いたかったと言えなかったのも。
中庭でハリーがジニーと笑うのを見て息が詰まったのも。
全部、根っこは同じだった。
「どうせ自分は選ばれないかもしれない」
その古い恐怖が、少し刺激されるだけで、胸の奥の暗い場所からすぐに這い出してくる。
ドラコはゆっくり顔を上げた。
部屋は静かで、誰もいない。
だからこそ、自分に嘘がつけなかった。
ハリーは謝った。
自分の醜さを見せた。
なら次は、自分の番だ。
すぐには許せなかった。
それは本当だ。
でも、許せなかったのはハリーのせいだけではない。父の手紙に抉られた古傷と、自分の中の劣等感が、あまりにも騒がしかったからだ。
そこを言わなければ、たぶんまた同じことを繰り返す。
ドラコは立ち上がり、机へ向かった。
短い手紙を書いた。
今夜、天文塔へ来い。
来なければ呪う。
—— D
最後の一文は、ほとんど癖だった。
それがないと、自分が何かを必死で差し出そうとしていることを見透かされそうだった。
だが、手紙を封じる指先は少し震えていた。
⸻
夜の天文塔は冷える。
石の階段を上るたび、空気が薄く、静かになっていく。
ハリーは手紙を受け取った時からずっと落ち着かなかった。ドラコからの呼び出しだ。短い文面のくせに、妙に緊張が滲んでいた。
扉を開けると、ドラコはすでに来ていた。
塔の縁に近い場所に立っている。
黒いローブが夜風に揺れ、銀の髪が月明かりを拾っていた。背筋はいつも通りまっすぐなのに、その輪郭だけが少し細く見える。
ハリーは扉を閉め、ゆっくり近づいた。
「来たよ」
ドラコはすぐには振り返らなかった。
夜の向こうを見たまま、低く言う。
「来ると思った」
「呪うって書いてあったし」
その冗談に、ドラコは笑わなかった。
その代わり、少しだけ肩が動く。息を吐いたらしかった。
ハリーはそこで、今夜は軽口で進まないのだと悟る。
「ドラコ」
呼びかけると、ようやく彼が振り返った。
昼間の温室とは違う。泣いてはいない。
顔も整っている。
だが、目の奥だけがひどく静かだった。開き直った人間の静けさではない。長いこと隠してきたものを、とうとうもう隠せないと知った人間の静けさだ。
「温室で、すぐに答えられなかった」
ドラコが言う。
「うん」
「許したわけじゃない」
その言葉は鋭くはなかった。ただ事実として置かれる。
「まだ、ちゃんと痛い」
ハリーは頷いた。
「分かる」
「でも」
ドラコは一度視線を落とす。
「僕があそこで何も言えなかったのは、お前のせいだけじゃなかった」
風が吹く。
夜の冷気がローブの裾を鳴らす。
「手紙を読んだ」
ドラコは淡々と続ける。
「父からの手紙だ。監督生になれなかったことについて」
口元がわずかに歪む。
「期待外れだとさ」
ハリーは胸の奥が冷えた。
ドラコはその表情を見て、少しだけ皮肉げに目を細めた。
「そんな顔をするな。お前が思っている以上に、珍しくもない」
一拍置く。
「ただ、少し刺さり方が悪かっただけだ」
ハリーは何も言わなかった。
今は、口を挟むべきではないと分かったからだ。
ドラコは塔の石床へ視線を落としたまま言う。
「最初は、あの手紙のせいで余裕がなくなったんだと思っていた」
そこで首を振る。
「でも違った。あれは引き金でしかなかった」
月明かりの下で、ドラコの横顔はひどく白かった。
「僕は、監督生になれなかったことが悔しかった」
その言葉を口にするのに、少しだけ時間がかかった。
「父に叱られたからじゃない。叱られる前から、悔しかった」
さらに低くなる。
「認めたくなかっただけだ」
ハリーはそこで初めて、ドラコの声の奥にある疲れをはっきり聞いた。
「大したことじゃないと思おうとした」
ドラコは続ける。
「そんな肩書き一つで価値が決まるわけじゃないと、まともなことも考えた」
乾いた笑いが一つだけ落ちる。
「でも、そういう問題じゃなかったんだ」
夜の空気がひどく澄んでいる。
遠くで梟が鳴いた。
「選ばれなかった、という事実がきつかった」
ドラコの指先がローブの袖口を掴む。
「自分は当然そういう側の人間だと思っていたわけじゃない。少なくとも、今の僕はそこまで愚かじゃない」
そこで少しだけ息を止める。
「でも、どこかでまだ思っていたんだろうな。努力しなくても、失敗しても、最後には名前が守ってくれるって」
ハリーは小さく首を振った。
「そんなこと」
「ある」
ドラコははっきり遮った。
「少なくとも、僕の中にはあった」
そしてそのまま、夜へ向かって言葉を落とす。
「だから、外れた時に思った以上に堪えた」
ハリーは胸が痛かった。
慰めたい。否定したい。そんなの君の価値とは関係ないと言いたい。
でも今それを言うのは、たぶん違う。
ドラコが今差し出しているのは、慰めてほしい傷ではなく、ようやく本人が認めた古傷そのものだった。
「小さい頃から、ずっとそうだった」
ドラコはぽつりと続ける。
「何か一つうまくやっても、それで安心した記憶がない」
風がまた吹く。
今度は少し強く、ドラコの前髪を揺らした。
「褒められても、嬉しいより先に次を考えた」
目は遠くを見ている。
「失敗しないように。期待を裏切らないように。見限られないように」
一拍。
「そうしているうちに、何かができても安心には繋がらなくなった」
ハリーの喉が熱くなる。
ドラコはゆっくり振り返り、初めて真正面からハリーを見た。
「僕は」
そこでほんのわずかに声が揺れる。
「生まれてからこのかた、一度も心から安心したことがない」
その一言が、夜の冷気よりずっと鋭くハリーを刺した。
ドラコの顔は泣いていない。
でも、その目の奥には長い長い疲労が沈んでいた。
いつも気取って、余裕のあるふりをして、こちらを試すような言葉ばかり投げてくる男が、こんなにも静かな顔でそんなことを言う。
ハリーは胸の内側がぐしゃぐしゃになるのを感じた。
ドラコはそこでやめなかった。
今夜は、もう全部言うつもりなのだと分かった。
「だから、お前のことで少しでも不安になると」
ドラコは自嘲気味に口元を歪める。
「驚くほど簡単に壊れる」
視線が落ちる。
「遅れたあの日、僕は会いたかった。ただ、それだけだった」
その告白に、ハリーの息が止まる。
「でも待っていたと認めた瞬間、自分のほうが弱い立場になる気がして、怖くなった」
短く息を吐く。
「だから先に刺した」
ハリーは唇を噛んだ。
知っていた。
でも、本人の口からそう言われると違う。
ドラコのひどい言葉の裏側にあった怯えが、生身のままここにある。
「中庭で、お前がジニーと話しているのを見た時も」
ドラコは低く続ける。
「怒ったんじゃない。最初に来たのは恐怖だった」
その言葉に、ハリーは目を閉じたくなった。
「やっぱり、選ばれないのは自分のほうかもしれないって」
ドラコは声を落とす。
「それだけで、胸の中の汚いものが全部表へ出てきた」
そこで少しだけ笑う。ひどく乾いた笑いだ。
「独占したい。見せつけるな。僕だけを見ろ。そんなもの、まともじゃない」
「ドラコ」
「知ってる」
すぐに返る。
「でも本当だ」
その静かな断言に、ハリーはもう言葉を失った。
ドラコは一歩だけ近づく。
月明かりの下で、その目がひどく透明に見えた。
「僕の中には、ずっとどす黒いものがある」
低く、はっきりと。
「人を羨む。選ばれないことを恐れる。先に傷つくくらいなら相手を刺したくなる。欲しいくせに、欲しいと言えない」
喉が上下する。
「そして、そういう自分をずっと恥じてる」
ハリーの視界が滲んだ。
ドラコはそれに気づきながらも、最後まで言い切った。
「温室で泣いていたのは、父に叱られたからだけじゃない」
指先がわずかに震える。
「監督生になれなかった自分が情けなくて、ハリーにあんなことを言った自分が最低で、中庭のことを忘れられない自分が惨めで」
そこで、とうとう声がほんの少しだけ割れる。
「全部ひっくるめて、自分がどうしようもなく不出来だと突きつけられたからだ」
その沈黙は、長かった。
ハリーはもう、自分の頬を涙が伝っていることを隠せなかった。
胸の奥が痛くて、息が苦しくて、どうして今まで気づけなかったのだろうという後悔と、こんなものを一人で抱えさせていたのかという痛みでいっぱいだった。
「……ハリー」
ドラコが少しだけ困ったように言う。
その声にすら、まだ遠慮が残っている。自分ばかり話しすぎたのではないか、引かれたのではないか、そんな不安が見えてしまう。
それがたまらなかった。
ハリーは何も言わずに前へ出た。
そして、ドラコを抱きしめた。
最初の一瞬、ドラコの身体が固まる。
だがハリーは離さなかった。強く、でも苦しくないように、きちんと腕の中へ閉じ込める。
「……ハリー」
「ごめん」
ハリーの声は涙で掠れていた。
「ごめん、ほんとに」
額をドラコの髪に押し当てる。
「そんなふうにずっと一人で苦しかったのに、僕、自分のことばっかりで」
喉が詰まる。
「君が怖がってるの、ちゃんと見ようとしなかった」
ドラコは何も言わない。
でも、抵抗もしない。
ハリーはさらに抱きしめる。
「不出来なんかじゃない」
涙をこらえきれないまま言う。
「そんなことない」
もう一度。
「監督生になれなかったことも、怖かったことも、嫉妬したことも、何一つ君の価値を減らさない」
ドラコの肩が、腕の中でかすかに震えた。
ハリーは目を閉じた。
この人はどれだけ長いこと、安心のない場所で息をしてきたのだろう。どれだけ小さい頃から、選ばれ続けなければならないことに怯えてきたのだろう。
「僕は」
ハリーは低く言う。
「君が欲しいって言えないなら、そのぶん僕が言うよ」
呼吸が熱い。
「君が怖いなら、怖いって言っていい」
涙が落ちる。
「安心したことがないなら、これから少しずつ覚えればいい」
ドラコの手が、ハリーの背中にそっと触れた。
最初はためらうように。
それから少しずつ、しがみつくように。
その小さな変化だけで、ハリーはまた泣きそうになった。
「……簡単に言うな」
ドラコの声は、ハリーの肩口でひどく低かった。
でも、もう拒絶の響きではない。
「簡単じゃないよ」
ハリーは涙混じりに笑う。
「だから一緒にやるんだろ」
その言葉のあと、ドラコは長いこと黙っていた。
夜風が塔を抜けていく。
遠くで城のどこかの扉が鳴る。月は静かに高い場所にある。
やがて、ドラコがほんの少しだけ力を込めてハリーのローブを掴んだ。
「……今だけは」
掠れた声。
「離れるな」
ハリーはすぐに答えた。
「うん」
「嘘じゃなく」
「嘘じゃない」
「……本当に?」
ハリーは返事の代わりに、抱く腕をさらに強くした。
ドラコはそこでようやく、張り詰めていたものをほんの少しだけ手放した。
肩の力が抜ける。呼吸が深くなる。完全にではない。全部が癒えたわけではない。それでも、たしかに今この瞬間だけは、誰にも採点されず、誰にも値踏みされず、ただ抱きしめられている。
それがどれほど珍しいことかを思うと、ハリーの胸は痛いほどだった。
「……ごめん」
今度はドラコが、小さく言った。
「何が」
「全部だ」
ハリーは首を振る。
「あとで少しずつでいい」
ドラコは返事の代わりに、ハリーの肩へ顔を埋めた。
天文塔の夜は冷たかった。
けれど二人の間にある体温だけは確かだった。
それはまだ救済ではない。
長年の劣等感も、父の重圧も、胸の闇も、一晩で消えるようなものではない。
それでも、初めてその暗さごと誰かに見せたドラコと、初めてそれを受け止めて涙を流したハリーの間には、たしかに新しいものが生まれていた。
名前のない、小さな安堵だった。
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