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マルフォイ家の馬車が迎えに来た時点で、嫌な予感はしていた。
ホグワーツから急ぎの呼び出し。
差出人は父。
文面は短く、用件だけが並んでいた。
直ちに戻れ。
話がある。
余計な言葉がない時ほど、ルシウス・マルフォイは怒っている。
ドラコは幼い頃からそれを知っていた。
だから屋敷へ戻る道中、ずっと胃のあたりが冷たかった。
監督生になれなかったこと。最近の試験結果。父にとってはどちらも「言い訳の余地がない失態」だ。叱責は覚悟していた。覚悟していたはずだった。
けれど、それでも足りなかった。
マルフォイ家の屋敷は、夜になると静かすぎる。
門が開く。
石畳を車輪が滑る。
灯りのともった窓がいくつも並んでいるのに、そこに温かさはない。整いすぎた闇だった。何一つ乱れていないぶんだけ、帰るたびに胸が硬くなる。
ドラコは玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、もう逃げられないと悟った。
使用人の姿は少ない。
屋敷しもべ妖精たちの気配だけが壁の向こうで小さく動いている。広間の奥には父が立っていた。母の姿はない。たぶん呼ばれていないのだろう。あるいは、呼ばれていても同席を許されなかったか。
ルシウスは手袋も外さず、ただ静かにこちらを見ていた。
その静けさが一番怖い。
「父上」
ドラコがそう言うと、ルシウスは返事の代わりに顎をわずかに上げた。
「書斎へ来い」
それだけだった。
怒鳴り声はない。
皮肉もない。
だからこそ、ドラコの背筋に冷たいものが走る。
書斎はいつも通りだった。
重厚な机。磨き抜かれた床。壁一面の本棚。銀の燭台。
子どもの頃から何度も入った部屋だ。褒められたこともある。叱責されたこともある。だが、一度たりとも安心して座れた記憶がない。
ルシウスは机の向こうへ回り、椅子にも座らずに言った。
「監督生に選ばれなかったそうだな」
ドラコは姿勢を崩さないまま答える。
「……はい」
「最近の試験も振るわない」
ルシウスの声は低く、よく通る。
「魔法薬学での凡庸な点数。呪文学での詰めの甘さ。さらに変身術では、教師から“集中力の欠如”と書かれている」
そこで初めて、机の上の羊皮紙へ視線が落ちる。
「見事なものだ。ここまで短期間で期待を裏切るとは」
ドラコは喉の奥を固くした。
反論はできない。
成績が落ちていたのは事実だ。集中できていなかったのも。ハリーとのことで頭の中が乱されていた。寝不足も続いた。けれど、そんなものは父の前では何の理由にもならない。
「申し訳ありません」
口にした瞬間、その言葉がどれほど空虚か自分でも分かった。
ルシウスも同じだったのだろう。口元に冷たいものが浮かぶ。
「申し訳ありません、か」
静かに繰り返す。
「それで結果が変わるなら便利だな」
ドラコは目を伏せなかった。
伏せたら終わる。そういう家で育った。
「お前は最近、浮ついている」
ルシウスの声音が一段低くなる。
「緩んでいる。自分の立場を忘れている」
一歩、机の前へ出る。
「マルフォイの名を背負っている自覚が、本当にあるのか?」
ある、と即答したかった。
だが、その言葉は喉に引っかかった。
ある。
あるからこそ苦しい。
あるからこそ、ずっと息が詰まってきた。
そんなことを言えるはずもない。
沈黙した息子を見て、ルシウスの目がさらに冷えた。
「返事もできないのか」
「……あります」
「聞こえないな」
「あります、父上」
ようやく出した声は、自分でも嫌になるほど硬かった。
ルシウスはしばらくドラコを見つめ、それから軽く鼻で笑った。
「あると言うわりに、結果が伴わない」
その笑いは嘲りに近い。
「監督生にもなれず、学業も落ち、最近は振る舞いまで不安定だ。これで何をもって自覚があると言える?」
ドラコは爪が掌に食い込むほど手を握った。
言い返したい。
けれど、何を言っても正当化にしか聞こえない。そういう場だ。そういう父だ。
ルシウスはさらに言葉を重ねる。
「お前は昔から、肝心なところで脆い」
一語ずつ、丁寧に刺してくる。
「外面だけは整えるが、中身が続かない。少し揺さぶられただけで足元が崩れる」
視線が細くなる。
「まったく、誰に似たのか」
その一言に、ドラコの胸の奥が鈍く痛んだ。
誰に似たのか。
その問いは、幼い頃から何度も形を変えて繰り返されてきた。期待外れだった時。望んだ答えが返せなかった時。父の思う“理想の息子”から少しでも外れた時。
お前は足りない。
お前は正しくない。
お前はまだマルフォイとして未完成だ。
そう言われ続けてきたのと同じことだった。
「申し訳ありません」
ドラコはもう一度言った。
「立て直します」
ルシウスは冷ややかにそれを聞いた。
「立て直す?」
机の上の報告書を指で叩く。
「何をどう立て直すつもりだ」
次の一言は、刃のように鋭かった。
「ホグワーツで“誰と”時間を使っているかも知らぬまま、そう言うのか?」
ドラコの背中に冷たいものが走った。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
何か知られている。
そう直感した。
だが、どこまでだ。どこまで漏れている。
「……どういう意味ですか」
ルシウスの目が細くなる。
その瞬間、書斎の扉の外で、小さな物音がした。
カチャリ、と何か銀器でも触れたような音。
ルシウスが不機嫌そうに顔を向ける。
「誰だ」
扉の外で、しもべ妖精の怯えた声が震えた。
「も、申し訳ございません、旦那様……お茶を、お持ちしようと……」
「入れ」
冷たい命令だった。
扉がきしみ、年老いた屋敷しもべ妖精がティートレイを抱えて入ってきた。痩せた腕が震えている。長年この家に仕えた妖精だった。普段は物音ひとつ立てずに動くのに、今は明らかに様子がおかしい。
ドラコはその顔を見た瞬間、ひどく嫌な予感がした。
妖精はティートレイを置こうとして、指を滑らせた。
カップがひとつ、皿の上で派手な音を立てる。
ルシウスの目が凍る。
「無能が」
妖精はびくりと肩を震わせ、そのまま床へ額をこすりつける。
「お許しください、旦那様! どうか、お許しください!」
ルシウスは杖を抜きかけた。
ドラコの喉が強く締まる。
「待ってください、父上」
思わず口を挟む。
それがまずかった。
ルシウスの視線がゆっくりドラコへ戻る。
「ほう」
静かすぎる声。
「お前は今、この出来損ないを庇ったのか?」
「庇ったのではなく」
「黙れ」
その一言で、空気が凍りつく。
しもべ妖精は床に額をつけたまま、震えながら言った。
「ドラコ坊ちゃまは、お優しくて……その、ポッター様にも、とても……」
ドラコの全身から血の気が引いた。
「黙れ!」
叫んだのはドラコだった。
普段の彼なら決して父の前で出さない種類の、切羽詰まった声だった。
遅かった。
ルシウスは、ぴたりと動きを止めた。
しもべ妖精は怯えきって、もう何を言っているのか自分でも制御できていないらしかった。恐怖のあまり、最悪の方向へ言葉が転がる。
「ドラコ坊ちゃまは、ポッター様と何度もお会いになって……夜にも、お手紙を……それで、あの、温室のあとも……!」
書斎が、音のない深淵になった。
ルシウスはしばらく何も言わなかった。
何も言わないまま、ただドラコを見ている。
その沈黙のほうが、怒鳴り声よりずっと恐ろしい。
しもべ妖精はようやく自分が何を言ったのか理解したのだろう。悲鳴に近い声をあげ、床へさらに身を縮めた。
ドラコは何も言えなかった。
否定するべきだ。
今すぐ。
誤解だと。妖精の戯言だと。そう言わなければならない。
なのに、喉が動かない。
ハリーの名を父の前で口にすること、その事実だけで、身体のどこかが先に固まっていた。
そして、そのわずかな沈黙がすべてを肯定した。
ルシウスが、ゆっくりと口を開く。
「……ポッター?」
その一語は、声というより冷たい刃だった。
ドラコはようやく、掠れた声で言った。
「父上、それは」
「事実か」
ルシウスが遮る。
返せない。
ほんの一秒。
その一秒のためらいで十分だった。
次の瞬間、ルシウスは完全に冷静さを失った。
「事実かと聞いている!」
机の上のインク瓶が倒れ、黒い液体が羊皮紙へ広がる。
そんなことにすら目がいかないほど、彼の怒気は露骨だった。顔から上品な静けさが剥がれ、そこにはただ、激昂した父親の貌だけが残っている。
「ポッターと?」
ルシウスは一歩、また一歩とドラコへ詰め寄る。
「よりにもよって、あの男の息子と?」
目が見開かれ、声が低く震える。
「お前は何を考えている。何をしている。マルフォイの名を背負っておきながら、そんなものにうつつを抜かして成績まで落とし、監督生にもなれず、あげく家名へ泥を塗るつもりか!」
ドラコはその場に立ったまま、動けなかった。
反論したい。
ハリーは「そんなもの」ではない。
成績と彼を結びつけるな。
何も分かっていない。
そう叫びたいのに、父の怒声の前で、幼い頃から染みついた恐怖が先に身体を支配する。
「違います」と言えば済むのか。
でも何が違う。
好きなのは事実だ。
会っていたのも事実だ。
手紙を書いたのも。夜に呼び出したのも。全部、事実だ。
その事実を、父の前でどうやって否定しろというのか。
「……っ」
声にならない。
ルシウスの顔がさらに歪む。
「言い返せないのか」
その言葉には怒りだけでなく、深い侮蔑が混じっていた。
「なんという恥だ。お前はどこまで私を失望させる」
ドラコの心臓がひどく強く打つ。
耳鳴りがする。
視界の端が少し暗い。
ルシウスは容赦しない。
「監督生になれなかっただけでは飽き足らず、今度はポッターにうつつを抜かして自分の成績まで崩したか」
冷たく言い放つ。
「馬鹿げている。醜悪だ。度し難い」
醜悪。
その一言が、まっすぐ胸の奥へ入った。
ドラコはもう、顔を上げられなかった。
恥ずかしい。
悔しい。
怖い。
それなのに、どこかで「ああ、やっぱりこうなる」と思っている自分がいた。
見つかれば終わる。
知られれば切り捨てられる。
ずっとそう思っていた。
だから怯えていた。だから隠した。だから少しでも相手に依存していると悟られたくなくて、先にひどいことを言ってしまう。
全部、ここへ繋がっていたのだ。
「ホグワーツへ戻る必要はない」
ルシウスの声が落ちた瞬間、ドラコは顔を上げた。
「……何?」
「聞こえなかったか」
ルシウスの目は氷のようだった。
「お前は二度とホグワーツへ戻らせない」
ドラコの呼吸が止まる。
「父上、待ってください」
「待たない」
即答だった。
「これ以上あの学校で何をする。ポッターと戯れるのか? 成績を落とし、家名を汚し、挙げ句の果てに恥を持ち帰るために?」
声が低くなる。
「お前にはもう自由を与える必要がない」
「違う、僕は」
「黙れ!」
ルシウスの怒鳴り声が書斎の壁を打つ。
ドラコはその一喝で完全に言葉を失った。
喉が閉じる。子どもの頃と同じだ。どれだけ理屈が頭にあっても、あの声で押し潰されると身体のほうが先に怯える。
ルシウスは扉のほうを振り向いた。
「誰か」
すぐにしもべ妖精が震えながら現れる。
「ドラコを地下へ」
その命令の意味を理解した瞬間、ドラコの全身が冷えた。
地下室。
あの場所は保管庫であり、罰の場だった。長く閉じ込められることは稀でも、子どもの頃から「本当に我を忘れた時に行かされる場所」として、その響き自体が恐怖と結びついている。
「父上」
今度は声が出た。
だが、その声は自分でも情けないほど震えていた。
「やめてください」
ルシウスは見下ろすだけだった。
「今さら恐れるのか」
冷たい笑みが浮かぶ。
「お前はもっと恐れるべきものを忘れていたらしいな」
ドラコは一歩だけ後ずさった。
だが背中はすぐ本棚にぶつかる。逃げ場がない。
「父上、お願いです」
自分でも驚くほど声が低い。
「ホグワーツは」
そこで言葉が詰まる。
「戻らせてください」
その懇願が、どれほど父の神経を逆なでするかも分かっていた。
それでも言わずにいられなかった。
ハリーの顔が浮かんだ。
天文塔で泣いていた顔。
自分を抱きしめて「少しずつ覚えればいい」と言った声。
あれが頭にある状態で、何も言わずに連れ去られることだけは耐えられなかった。
だがルシウスは、その一言でむしろ完全に見切ったようだった。
「なるほど」
低く言う。
「そこまでだな」
ドラコの胸が凍る。
「連れていけ」
しもべ妖精が恐る恐る近づく。
ドラコは反射的に身を引いた。だが、妖精の震える手ではなく、その後ろから伸びてきた父の杖の先のほうがよほど恐ろしかった。
「逆らうな」
その声に、身体が動かなくなる。
悔しい。
情けない。
でも、幼い頃から刷り込まれた恐怖はそんなに簡単には消えない。
ドラコは唇を噛み、何も言えずに立ち尽くした。
書斎の灯りは明るいのに、足元だけが沈んで見えた。
心臓がうるさい。
指先が冷たい。
ハリーに何も伝えられないまま、ここで閉じ込められるのかという恐怖が、父への恐れと混ざって喉元までせり上がる。
しもべ妖精が先導する。
ルシウスは最後まで表情を変えなかった。
廊下を歩かされるあいだ、ドラコは一度も振り返れなかった。
振り返ったところで助けはない。
この家では、誰も父に逆らわない。
母がいたとしても、今夜ばかりは何もできないかもしれない。あるいは、知ることすら許されないかもしれない。
地下へ続く階段は冷たく、暗かった。
石壁から湿気が滲み、足音がやけに響く。
一段下りるたび、胸の奥に古い恐怖が蘇る。
子どもの頃、罰として扉の前に立たされた時のこと。泣いても何も変わらないと知った時のこと。家の静けさが、庇護ではなく監視なのだと理解した夜のこと。
ドラコは歯を食いしばった。
泣くな。
今ここで泣いたら、本当に終わる。
そう言い聞かせても、呼吸は浅くなり、視界の端が熱を持つ。
地下室の扉が開く。
中は暗い。
小さな窓すらない。石の床と、壁際の粗末な長椅子だけ。空気が冷たい。
「お入りくださいませ、坊ちゃま……」
しもべ妖精の声まで涙ぐんでいた。
ドラコは動けなかった。
足が、扉の敷居を越えることを拒んでいた。
すると背後から、ルシウスの声が落ちる。
「ここで少し頭を冷やせ」
そして最後に、何の感情もない声で言った。
「お前が何者か、思い出すまでな」
その一言で、ドラコはようやく理解した。
父は怒っているだけではない。
矯正するつもりなのだ。
自分を“間違った場所へ逸れかけた息子”として、閉じ込め、削り、元の形に戻そうとしている。
ドラコは胸の奥が冷えきるのを感じた。
ハリーの名を呼びたかった。
でも、声にした瞬間、それすら奪われる気がしてできなかった。
しもべ妖精が、震える手で扉を押さえている。
ドラコはゆっくり中へ入った。
石床が冷たい。
扉の向こうに、灯りの筋だけが見える。
次の瞬間、重い音が響いた。
扉が閉まる。
鍵が回る音がした。
完全な闇ではない。
扉の下の隙間から、ごく細い光が一本だけ伸びている。だが、それは希望には見えなかった。ただ、自分が閉じ込められたことを正確に知らせる線だった。
ドラコはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
呼吸がうまくできない。
胸が痛い。
怒りも、恐怖も、悔しさも、全部が喉の奥で絡まって言葉にならない。
そして何よりきつかったのは、頭のどこかがまだ父の言葉を否定しきれずにいることだった。
お前は失望だ。
お前は間違っている。
お前が何者か思い出せ。
その声は、今まで何度も聞かされてきたからこそ、簡単には追い払えない。
ドラコはようやく壁際まで歩き、石の床に膝をついた。
震える手で口元を押さえる。
安心できる場所が欲しかっただけなのに。
それを手に入れようとした途端、全部失うのかという恐怖が、心のいちばん弱いところを抉っていた。
闇の中で、ドラコは目を閉じた。
ハリーに会いたかった。
ただ、その一つの事実だけが、どうしようもなく痛かった。