アネモネはソレールに続いて、屋敷……とは呼べない家屋に足を踏み入れた。
キッチンにバスルーム、それからダイニング兼居間。かつて書斎であっただろう本に埋もれた部屋は、今は納戸と化している。最後にソレールの寝室。
これが彼の全ての生活空間だった。予想通りで、特に感想はない。
あっという間に自宅の説明を終えたソレールは、着席することなくそのまま玄関へと向う。
「じゃあ、私は仕事に戻るね。夕方には戻るから、それまでは好きに時間を過ごしててくれるかな?夕食は一緒に食べよう」
「はい」
「ただ、女の子が一人で留守番するのはちょっと心配だから、鍵は掛けておくね。えっと……お腹はすいてるかな?」
「いえ」
「そっか。でも、もしお腹が空いたならここにあるものなら何でも食べていいから。茶葉は棚の中だよ。あっ、火の取り扱いだけは気を付けて。くれぐれも火傷しないように」
「は……は、はい」
出会ってまだ1時間足らずの人間に無防備過ぎると思ったが、アネモネは曖昧に頷く。
そうすればソレールは、にこりと笑って「行ってくるね」と言って軽く手を振ると、玄関の扉を開けて外へ出た。
カチャリと独特の金属音を立てて鍵が閉まる。
アネモネは息を殺して、立て付けの悪い門が閉まる音を確認すると、ぐぐっと伸びをした。
「さてっ、と」
まずは、やらなければいけないことがある。
玄関に置きっぱなしになっている鞄を持つと、アネモネは寝室に足を向ける。そして、鞄から便箋を取り出して、ベッドの横にある文机に腰掛けた。
ペンはあいにく忘れてしまったので、勝手に拝借することにする。
ついさっきまでの大人しさは、どこへやら。アネモネの表情は、ふてぶてしい。
アネモネが勝手知ったる自室のように過ごしているソレールの寝室は、外壁と同じ白い漆喰の壁で小さな窓しかないのに、とても明るい。
壁には二頭の馬が小川でじゃれ合う様子を描いたタペストリーが掛けられている。温かみのある絵だ。
身内に画家がいるアネモネは、うっかり他人の絵を褒めてしまったことに罪悪感を感じて、便箋に視線を落とす。
アネモネがやらねばならないこととは、親代わりのタンジーに状況が変わってしまったことを伝える手紙を出すこと。
タンジーは初老の画家で、亡き師匠とは男女の仲だった。
ちなみにタンジーは決して怖い人ではない。なさぬ仲であるアネモネを実の娘のように大切にしてくれて、殴られたことも、怒鳴られたことも、一度もない。
唯一不満があるとすれば、彼の中では、アネモネは出会ったばかりの10歳くらいのままでいるようで、妙に心配性なところがある。言葉を選ばなければ、少々……いや、かなり過保護なのだ。
子供扱いされるのは、アネモネは好きじゃない。遠回しに何もできないと思われているようで腹が立つ。
少し前までは、子供じゃないんだからとプリプリ怒っていたけれど、最近は、先回りして大丈夫と伝えるようにしている。成長した証だ。
むふっと得意げな顔をしながら、アネモネはペンを走らす。
お届け先のアニスが、一筋縄では依頼品を受け取ってくれないこと。ひょんなことから、彼の護衛騎士と出会ったこと。そして、アニスが記憶を受け取ってくれるまで、ソレールの元で過ごすこと。
それらを一気に綴ったアネモネはペンを置き、ふうふうとインクを乾かしながら、さらっと読み直す。
「よし、これでいっか」
自分に及第点を出したアネモネは、手紙を封筒に入れると、鞄から銅板のプレートを取り出し、手紙と一緒にポケットに入れる。
あとは、手紙を出すだけだ。
「あ、鍵が……ない……!」
用意は完璧だと自負していたアネモネは、うっかりミスをしてしまい、窓に目を向ける。
「大丈夫、いける!」
窓の大きさと、自分の身体を見比べて、アネモネは窓枠に手をかける。
そしてリスのように身軽に庭に下り立つと、そのまま街中へと歩き出した。
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