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ソレールの屋敷を抜け出して歩き始めたアネモネは、反対側から歩いてくる人の良さそうな婦人に駆け寄った。
「あの、すみません。この辺りに商会窓口ってありますか?」
小型犬を連れた夫人は、にこりと笑って体の向きを変える。
「ええ。そこの大通りを右に曲がって、それから靴屋さんとパン屋さんの間の道を入ってね、そこからは……えっと、どうだったかしら?もう看板が見えるから迷うことは無いと思うけど、もしわからなかったら近くの人に聞いてちょうだい」
「はい!ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げたアネモネに、婦人は『お遣い?偉いわねぇ』と言って手を振ってから背を向けた。
明らかに子ども扱いされたアネモネは、ははっと乾いた笑いをしつつ、教えてもらった通りの道順で、商会窓口に向かう。
商人同士の助け合いを目的としたこの商会制度は、アディチョーク国で長い歴史を持つと共に、アネモネにとってなくてはならない大切な存在だ。
会員同士の連絡は迅速に対応してもらえるし、遠出の際には馬車を手配してくれる。移動手段に困るどころか、時には護衛も付けてくれる心強い制度だ。
親代わりのタンジーも会員なので、紹介窓口で会員証の銅板プレートを見せれば、山奥にいる彼の元にも手紙を最短で届けてくれる。
アネモネが初めて商会制度を利用したのは、1年ほど前。
「私と仕事どっちが大事?」と婚約者に聞かれ、即答できず破綻寸前になってしまい、途方に暮れてしまった王都で時計職人を目指している青年からの依頼がきっかけだった。
色恋に疎いアネモネからしたら、内心しょーもない依頼だと思ったけれど、心労でやつれきった依頼主にタンジーが絆されてしまったせいで、遥か西の領地に向かう羽目になった。
破格の料金で請け負った仕事だったけれど、結果として満足のいく仕事ができた。
無事に結ばれた二人の間には、子供も生まれたそうだ。末永くお幸せにと、アネモネはいつも思っている。
ちなみにタンジーの仕事は絵師であるが、ちょっと変わっていて憧憬画家と呼ばれている。
依頼主の憧れや叶えられなかった願望を汲み取り、描くことを生業としている。
憧憬画家と<紡織師>は共通点があるので、半人前のアネモネのために、タンジーは時折仕事を持ってきてくれる。
過保護だけれど、仕事を与えてくれるということは、<紡織師>としては認めてくれているのだろう。
多少の矛盾を感じるけれど、そんなもんかと割り切り、アネモネは歩く足を止めた。
商会窓口の水色のフクロウの看板が目に入ったからだ。
***
受付で銅板プレートを見せて手紙の配達を依頼すれば、あっという間に手続きは終わった。
タンジーはしょっちゅう商会制度を利用して国内を放浪しているから知名度がある。
そのおかげで配達先が森の中でも、窓口のおじさんは二つ返事で手紙を受け取ってくれた。
「じゃあ、タンジーさんに渡しとくね。明日になると思うけど、大丈夫かい?お嬢ちゃん」
「あーはい。大丈夫です」
「じゃあ、返事を貰うように言っておくから。あさってにでも顔出しな。それまでは、ちょっと心細いかもしれんが、まぁ、何かあったら力になるから。困ったことがあったら、いつでもここに来な」
カウンター越しから、働き者特有の節ばった手が伸びてきて、アネモネは頭をわしゃわしゃと撫でられる。
「はぁ……わかりました」
心配そうな表情を浮かべて、カウンターに置いてあった飴を渡してくれた受付のおじさんは、心優しい人なのだろう。
でも一日も早く一人前になりたいアネモネとしては、子供扱いされて少しだけイラッとしてしまう。でもそれは、一瞬だけだった。
「あ、そうだっ。これ、お食べ。近くのパン屋が新作のサンドウィッチを試作で持ってきてくれたんだ。自信作らしいから、きっと美味しいと思うぞ。ほらっ」
ぽんっと投げて寄越した包みは、ずっしりと重く、それでいて包み越しにフカフカのパンの感触が伝わってくる。
ゲンキンではあるが、アネモネの不機嫌さはすぐさま飛散した。
「ありがとうございます!」
思わぬ差し入れを受け取ったアネモネはぺこりと頭を下げ、ご機嫌な足取りでソレールの自宅へと向かった。
──それから数時間後。
商会のおじさんから貰ったサンドウィッチと飴を食べたら、気持ちは落ち着いた。
空腹は心を侘しくさせ、満腹は心を豊かにしてくれる。
ただ、サンドウィッチ一切れと飴一個では、満腹にはならない。辛うじて心細さを誤魔化すことができている程度だ。
「あー……どうしようっかな、これ」
アネモネは長年風にさらされたベンチに腰かけて、溜息をついた。
ここは多分、ソレールの家からさほど離れていない街道から逸れた空き地。でも、どこかはわからない。
つまり、帰り道がわからなくなってしまったのである。
来た道を戻ればいいだけなのにと、言わないで欲しい。それができるなら、方向音痴という人種はこの世から消えてなくなるはずだ。
人は誰しも、欠点を持つ。
アネモネの欠点は、筋金入りの方向音痴だったりする。