「アライン様⋯⋯どうか、お手を」
声を震わせながらも、敬意を崩さぬ口調。
押さえていた二人の男が
失神しかけた仲間の身体を抱え上げる。
その胸元には
濡れた布のようにぶら下がった
赤黒い血痕が滲み
空になった眼窩からは
まだ微かに液が垂れていた。
だが、アラインは
その姿に一瞥をくれるだけで
静かに右手を差し出す。
即座に差し出された白いハンカチ──
それを受け取ると
血で濡れた指先を一拭い、また一拭い。
まるでワインを零しただけのように
平然とした手つきで、それを拭っていく。
落ちた赤は、白布の上で静かに広がった。
鮮やかな、乾いた、罪の色。
その間に
眼球を潰された男は抱えられ
会議室を出て行った。
ギィ⋯⋯という扉の軋みが
異様な静けさの中で響いた後
再び沈黙。
アラインは、拭い終えた手を
そっとハンカチごと後ろ手に返すと
ゆっくりと顔を上げた。
その視線が、静かに、確実に──
会議室に並んだ全ての者達を見渡していく。
ひとり、またひとり。
その目に捕えられた者は
まるで心臓を素手で握られたかのように
全身の筋肉が硬直していった。
そして誰もが
もう言葉はいらないと理解していた。
そこにいたのは、かつての〝王〟
命の価値を、指先ひとつで計る支配者。
一切の容赦も、赦しも持たない存在。
あの日々が──
この一夜にして、完全に戻ってきたのだと。
いや、むしろ以前よりも
もっと〝掴めない〟
もっと〝異質な〟何かが加わっていた。
アラインの口元に、ふわりと笑みが浮かぶ。
「うんうん。
ちゃあんと、思い出したみたいだね?」
その柔らかい声音に
誰一人として顔を上げる者はいなかった。
ただ静かに──
全員が、姿勢を正した。
そのまま、胸に右手を当て
かつてのように忠誠を示す
旧き儀礼の姿勢を取る。
アラインは満足げに頷いた。
「ライエルの言葉は──ボクの言葉」
その語り口は、決して大声ではない。
むしろ、室内に染み渡るような
冷たい水のような声音だった。
「ボク──
アライン・ゼーリヒカイトの言葉だと
理解し、従うように」
間。
誰も息をしていないのではと思うほどの
静寂の中──
彼は、最後の一言を口にした。
「逆らったら⋯⋯解ってるよね?」
無邪気な子供のような微笑。
だが、先ほど床に散った血の生温かさが
全員の記憶にまだ生々しく残っていた。
返事はなかった。
必要なかった。
沈黙こそが、最大の服従だった──⋯
⸻
控え室──
空調の音さえ耳障りに思えるほど
張り詰めた空気が満ちていた。
無機質な蛍光灯の明かりが
壁のひび割れをいやらしく照らし出す。
安物のテーブル、剥げかけた椅子。
普段なら
ただの備え付けの部屋にすぎないこの空間も
今はまるで〝処刑台〟に思えた。
三人の男たちは
アラインに名を呼ばれた直後から
ほとんど思考が働かなくなっていた。
──何をした?
──知らずに逆鱗に触れたか?
──さっき目を潰された男のように
──いや、それ以上に⋯⋯
恐怖が、脳髄を蝕んでいた。
そして、扉が開く。
「⋯⋯⋯っ!」
ぴしゃりと、空気が張り詰める。
黒の神父服に身を包んだ男が
まるで何の感情も持たない
人形のような静けさで
室内に一歩、足を踏み入れる。
──アライン
その名を脳裏で唱えた瞬間
三人は本能的に反応した。
ガタッ、と椅子を弾いて立ち上がり──
「アライン様っ!
申し訳ございませんっっっ!」
三人同時に、床に両手をついて土下座。
震える背中が
まるで命乞いをしているようだった。
床に擦れる額の音。
重ねて唱えられる謝罪の言葉。
だが、その声に、アラインはただ──
「ふふ⋯⋯」
微笑んだ。
その声音は穏やかで
まるで子供が
新しい玩具を見つけたかのような
楽しげなものだった。
「何か⋯⋯謝るようなことをしたの?」
その言葉に、三人は凍りつく。
冗談か、本気か──
それを見極める間も与えられず
ただ土下座を深くする事しかできなかった。
だが、次の瞬間。
「キミたちは
明日から孤児院に勤務だよ」
その言葉は、あまりにも意外だった。
「⋯⋯え?」
顔を上げかけた三人に
アラインはゆっくりと微笑みかける。
「ライエルの指示に従うようにね?」
その言葉とともに、彼の視線が深く沈んだ。
瞬間──
視界がぐにゃりと揺れる。
世界が、わずかに歪むような錯覚。
アラインは
声に出さずとも記憶を〝なぞる〟ように
三人の脳内へと直接
記憶の改竄を始めた。
まずは国家資格。
介護、教育、福祉、児童支援。
必要な試験に合格した実績と書類。
職務経験──実地研修。
善良な奉仕者としての信念と、心根。
それらが
まるで幼い頃からの
自分の一部であったかのように
脳の中で〝編み込まれていく〟
次に、ハンターとしての過去の記憶。
それらは、丁寧に、滑らかに──
ー慈善活動団体
ノーブル・ウィルにおける支援活動ー
の記憶へと〝変換〟されていく。
銃の手入れは
〝緊急時の警備研修〟
監視任務は
〝社会的弱者の見守りボランティア〟
戦闘訓練は
〝災害対策と応急処置のシミュレーション〟
そこにあった血と殺気と命令は──
すべて、美しい偽善に包み直されていく。
「はい⋯⋯私たちは⋯⋯孤児院勤務⋯⋯」
「ライエル様に⋯⋯従って⋯⋯」
三人の声は、どこか夢うつつのようだった。
けれど、その瞳にはもはや怯えはなく
ただ〝純粋な使命感〟が
澄んだ光を宿していた。
アラインは
満足そうにその様子を見届けた。
「うん、いい子たち。
これで、時也が相手でも、問題ないね?」
誰に向けたのでもない
けれど確実に〝何か〟を想定したその呟き。
やがて彼は静かに振り返り
部屋を後にした。
背中からは
もう冷酷な〝王〟の気配は
感じられなかった。
だが、誰よりも巧みに──
彼は〝支配〟していた。
記憶の中の真実すら、優しさに塗り替えて。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!