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第一話 猫は勝手に来て、勝手に居座った
猫がうちに住みついた日のことを、僕はよく覚えている。
正確に言えば、「住みついた」と表現するのも猫に対して失礼かもしれない。
あれはたしか、十一月の終わり、風が乾いて、夕方になるとアパートの外階段が冷たい鉄の匂いを帯びるころだった。
僕はコンビニで買った安いカップ麺と、値引きシールの貼られたコロッケ二つを提げて帰宅した。
小説家を名乗ってはいるが、当時も今も、名乗ることと食えることの間には大きな断崖がある。
部屋の前に、灰色と白のぶち猫がいた。
痩せていた。痩せていたが、弱っているようには見えなかった。
むしろ妙にふてぶてしくて、こちらを見上げる眼差しには「お前が住人か」という確認以上の感情がなかった。
僕が鍵を取り出すと、猫は当然のように足元をすり抜け、玄関の隙間から部屋の中へ入っていった。
「おい」
猫は振り返らなかった。
そのころの僕は、三十一歳。デビューして二冊本を出し、どちらもひどく静かに沈んだ。
書評サイトに熱心な読者が三人ほどついてくれて、「この作家は文章に癖があるけど刺さる人には刺さる」と評してくれた。
刺さる人が少なすぎる。担当編集の新田は、会うたびに
「尖るのは結構ですが、売れなきゃ刃物もただの鉄くずです」と言った。
部屋の奥では、妻の真紀が台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま。……猫いる」
「いるね」
真紀は振り向きもせず、鍋の味見をしていた。味噌汁の匂いがした。
豆腐とわかめの、たいへん堅実な匂いだった。僕の人生からもっとも遠い種類の安心感である。
「入っていったけど」
「見てた」
「止めてくれよ」
「止めたよ。聞かなかった」
真紀はそう言って、やっとこちらを見た。笑いをこらえている顔だった。
こういうとき、彼女は決して大笑いしない。僕の不機嫌の半径をよくわかっているからだ。
部屋の真ん中にあるローテーブルの下で、猫は丸くなっていた。
知らない家の、知らない夫婦の、知らない匂いの中で、すでに長年の居住者のような顔をしている。
「野良かな」
「首輪ないし、たぶん」
「追い出そう」
「追い出してもまた来る気がする」
「なんでそんなことわかるんだよ」
「顔」
猫はそのとき、片目だけ開けて、たいそう迷惑そうに僕を見た。
それが始まりだった。
結局、その夜のうちに猫は出ていかなかった。
真紀が玄関を開けても、窓を少し開けても、まるでこの部屋の賃貸契約書に自分の名前があるみたいな態度で動かなかった。
僕が「せめて保健所とか」と言いかけると、真紀は「明日考えよう」と言った。
明日考えよう、というのは彼女の口癖だ。そしてその言葉は、たいてい僕より賢い。
翌朝、猫はいた。
その翌日も、いた。
三日後には、僕の仕事部屋の椅子を占領していた。
「なんでそこなんだよ……」
僕が原稿に向かうための、背もたれのきしむ安物の椅子だ。
猫はそこで長く伸び、腹を見せ、僕の生活のわずかな権威を根こそぎ奪った。
真紀はホームセンターで猫用の皿を買い、僕は渋々、猫缶を買いに行かされた。
「名前は?」
「つけるのか?」
「呼びにくいでしょ」
「別に来ないだろ、呼んでも」
「それでも」
真紀はしばらく猫を見て、それから言った。
「先生」
「は?」
「この家で一番偉そうだから」
「やめてくれ」
「じゃあ、原稿」
「もっとやめてくれ」
「じゃあ……文豪」
「それ、僕が死ぬほど傷つくやつ」
最終的に、その猫は「先生」になった。名づけた瞬間から、僕は敗北した気がした。
先生は元野良らしく、やたらと生活能力が高かった。戸棚を開ける。乾物の袋を破る。
人が風呂に入っている隙に台所の焼き魚を持ち逃げする。
けれど妙に線引きもしていて、僕の原稿用紙の上では決して吐かなかった。
そこだけは不可侵だと理解しているふうだった。
理解しているのではなく、たまたまかもしれないが、作家という生き物は都合のいい偶然を意味づけて生き延びる生き物だ。
小説が売れない。
これは、冷蔵庫の奥で賞味期限の切れた卵を見つけるよりも、もっと鈍く、もっと確実に生活を蝕む。
たとえば朝、目が覚めた瞬間から、自分が社会の何者でもないような気がする。
たとえば銀行口座の残高を見るたび、文章というものがいかに米にも味噌にもならないかを知る。
たとえば、妻が「今月は大丈夫」と言うたび、その“大丈夫”が彼女のどこを削って作られているのか考えてしまう。
真紀はパートを二つ掛け持ちしていた。
朝は駅前のベーカリー、午後は近所の学習塾の事務。
夜になれば、疲れた顔で帰ってきて、それでも僕のために夕飯を作り、洗濯物を畳み、締切の近い僕にコーヒーを淹れた。
「そんなにしなくていいよ」
「しないと回らないでしょ」
「僕がやる」
「原稿やって」
彼女はたいてい、そう言った。
その「原稿やって」は、優しさであり、期待であり、祈りでもあった。
だからこそ、僕には重かった。やらなければならない。書かなければならない。結果を出さなければならない。
しかし、書かなければならないと思えば思うほど、文章は逃げる。逃げた文章を追いかけるうちに、一日が終わる。
先生はそのあいだ、窓辺で昼寝をしていた。
僕の焦りも、真紀の努力も、家賃の引き落とし日も、知ったことではないという顔で。
それが腹立たしくて、少し羨ましかった。
コメント
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はじめに この物語は、特別な人の話じゃない。 夢を追ってるのに、うまくいかない人。 頑張ってるはずなのに、報われない人。 そんな、どこにでもいる“大人”の話。 売れない小説家と、彼を支える妻。 そして、なぜか勝手に住みついた一匹の猫。 猫は何もしてくれない。 励ましもしないし、優しくもない。 むしろ、原稿の上を踏みつけたり、ご飯を盗んだり、ひたすら自由。 それなのに—— 気づけば、その存在が日常の真ん中にいる。 うまくいかない現実も、 すれ違う夫婦の気持ちも、 どうしようもない自分の弱さも、 全部そのまま、ここにある。 綺麗な話じゃないし、 スカッとする展開も多くはない。 でも、もし今 「なんかうまくいかないな」って思ってるなら—— 少しだけ、この物語が近くに感じるかもしれない。 気軽に読んでほしい。 そしてもし、どこかで引っかかるものがあったら—— それはきっと、あなただけのもの。 それと一応、先に言っておくけど。 猫は最後まで、原稿を読まない。