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「ふふっ」
白銀のテーブルを挟み。
アクチュアリティ女王は、扇子でも広げるような優雅さでカードを伏せた。
「私の勝ちですわね」
白銀の空間に、その声が静かに響く。
「残念でしたわ、マフィオソ様」
「……」
マフィオソは、しばらく何も言わなかった。
テーブルの上に並んだカード。
そこに示された結果は、疑いようのない敗北だった。
「……クソッ!」
マフィオソが拳を握る。
「八百長なしの勝負じゃ、女王相手に運が足りなかったか……!」
彼は歯を食いしばった。
そして。
ゆっくりと懐から取り出したものを見つめる。
金色に輝く懐中時計。
長年、彼が肌身離さず持ち歩いてきたものだった。
時間を確認するためだけではない。
マフィオソにとって、それは長い人生を共にしてきた、いわば相棒のような存在だった。
その時計を。
彼はしばらく見つめたあと。
「……約束は約束だ」
テーブルの中央へ。
カチャン。
金時計が置かれた。
「頂戴致しますわ」
女王は満足そうに微笑む。
「……くそっ」
マフィオソは椅子に深く座り直した。
肩が落ちている。
帽子も少しずれている。
さっきまでの威圧感は、見る影もない。
完全な。
負け犬だった。
「……」
その姿を。
少し離れた壁際から、チャンスは眺めていた。
今までなら。
何も思わなかっただろう。
他人が負けようが。
何かを失おうが。
自分には関係ない。
そう思っていた。
けれど。
「……」
チャンスの胸の奥で。
カチリ。
何かが小さく音を立てた。
「……負けた?」
チャンスは呟く。
マフィオソは負けた。
大切な時計も失った。
普通なら。
最悪の結果だ。
なのに。
「……なんで」
チャンスは、マフィオソの顔をじっと見る。
「なんで、そんな顔ができるんだ?」
悔しそうだった。
怒っている。
腹を立てている。
自分の運の悪さを嘆いている。
時計を失ったことを本気で悔しがっている。
つまり。
マフィオソは。
この勝負に、本気だった。
失いたくないものを。
本当に失うかもしれないという危険を。
それでも賭けた。
そして。
負けた。
「……」
チャンスの目が、ほんの少しだけ変わった。
「……そうか」
彼はゆっくりと立ち上がった。
「失うかもしれないから、面白いんだ」
その言葉は。
誰に向けたものでもなかった。
チャンス自身に向けたものだった。
幼い頃から。
ずっと求めていたもの。
安全ではない。
保証されていない。
結果が分からない。
失敗するかもしれない。
負けるかもしれない。
それでも。
やる。
それこそが。
チャンスにとっての「生きている」という感覚だった。
ところがSWAPSAKENへ来てから。
すべてが逆になった。
勝負は退屈。
危険は退屈。
勝利も退屈。
敗北すら退屈。
何もかもが安全で。
何もかもが予定調和。
だから。
死んだ。
ギャンブラーとしての自分が。
完全に。
死んだと思っていた。
だが。
今。
ほんの少しだけ。
胸の奥に。
火が灯った。
チャンスはポケットへ手を入れる。
指先に触れたのは。
いつもの銀貨。
「……」
取り出す。
銀色の硬貨が、白銀の光を反射する。
「……おい、マフィオソ」
「……?」
負け犬になっていたマフィオソが顔を上げる。
そこには、今までのチャンスにはなかった表情が浮かんでいた。
「無様に負けて」
チャンスは銀貨を指先で弄ぶ。
「大事な時計まで取られた気分は、どうだい?」
「あァ!?」
マフィオソの眉が跳ね上がる。
「てめぇ……!」
「フッ」
チャンスは笑った。
ほんのわずかに。
けれど。
確かに。
笑った。
「相変わらずだね」
「……何がだ」
「負けても怒る」
「当たり前だろうが!」
「大切なものを取られても悔しがる」
「当たり前だ!」
「それでも勝負そのものを嫌いにはならない」
マフィオソは一瞬黙った。
そして。
「……だから何だ」
チャンスはサングラスの位置を、人差し指でクイッと直した。
「賭け事で負けたときのルールを忘れたのかい?」
「……?」
チャンスは女王を見る。
その口元には。
いつもの退屈そうな表情はなかった。
そこにあったのは。
かつての。
ギャンブラー、チャンス。
「負けたなら」
銀貨を指先で弾く。
「十倍にして取り返せばいい」
「……!」
マフィオソの目が見開かれる。
アクチュアリティ女王も。
「あら?」
楽しそうに目を細めた。
「まあ」
女王が椅子から少し身を乗り出す。
「退屈さに死んでいたお客人が」
口元に笑みを浮かべる。
「勝負に乗ってくださるの?」
「……ああ」
チャンスは答えた。
その声は。
久しぶりに。
生きていた。
「俺の幸運の女神、レディラックと」
銀貨を親指の上に乗せる。
「この領域の女王との勝負だ」
そして。
テーブル中央に置かれたものを見る。
マフィオソの金時計。
少し離れた場所に転がっている。
自分の黒いフェドラ帽。
そして。
「賭け金は……」
チャンスは一拍置いた。
「俺の命」
マフィオソが固まった。
「……は?」
「それから」
チャンスはフェドラ帽を指差す。
「俺の帽子」
さらに。
「マフィオソの金時計」
「待て」
マフィオソが即座に口を挟む。
「俺の時計を勝手に追加するな!」
「もう君のじゃないだろ?」
「それはそうだが!」
「なら問題ない」
「問題しかねぇよ!」
女王が楽しそうに笑う。
「まあまあ」
「女王も止めろ!」
「私は止めませんわ」
「即答!?」
チャンスは二人のやり取りなど気にも留めず。
銀貨を指先で回した。
クルクル。
銀色の円盤が。
白銀の光の中で踊る。
「……さて」
チャンスは銀貨を親指に乗せた。
「表なら俺の勝ち」
「裏なら?」
女王が尋ねる。
チャンスは薄く笑う。
「俺の負け」
「まあ、普通ですわね」
「……だが」
チャンスは銀貨を見つめる。
「俺たちが今いる場所は」
指を弾いた。
「普通じゃない」
ピンッ。
銀貨が宙へ舞い上がった。
クルクルクルクル。
白銀の空間を。
銀貨が回転する。
高く。
高く。
そして。
落下。
カンッ!
テーブルへ衝突。
一度跳ね。
二度跳ね。
三度目。
クルクルと回転する。
「……」
女王が見つめる。
「……」
マフィオソも見つめる。
そして。
チャンスも。
「……」
銀貨は回り続けた。
表。
裏。
表。
裏。
表。
裏。
そして。
普通なら。
どちらかへ倒れる。
ところが。
「……あら?」
女王が目を瞬かせた。
銀貨の回転が。
止まった。
いや。
違う。
「……なんだ、これ」
マフィオソが呟く。
銀貨は。
倒れていなかった。
「……」
白銀のテーブルの上。
銀貨は。
完全に。
垂直に。
立っていた。
ピタッ。
まるで。
「倒れる」という概念そのものを拒否するかのように。
「…………」
誰も喋らない。
数秒。
十秒。
二十秒。
銀貨は。
立っている。
「……表でも」
チャンスが呟く。
「裏でもない」
女王が楽しそうに目を細める。
「まあ」
「……」
「こんな結果、初めて見ましたわ」
チャンスは。
立っている銀貨を見つめた。
その瞬間。
サングラスの奥。
黒い瞳が。
ギラリ。
光った。
「……ハハ」
マフィオソが振り返る。
「……チャンス?」
「……ハハハ」
チャンスの口元が歪む。
さっきまで。
何もかもどうでもよさそうだった男。
死んだ魚のようだった目。
退屈に塗り潰されていた顔。
それが。
今。
少しずつ。
少しずつ。
戻ってきている。
「立ってる」
「……」
「コインが」
チャンスは笑った。
「立ったままだ」
女王が微笑む。
「それが、そんなに面白いの?」
「ああ」
チャンスの声が低くなる。
「最高だ」
銀貨を見つめる。
「表でもない」
「裏でもない」
「勝ちでもない」
「負けでもない」
そして。
「確率論が死んでる」
SWAPSAKENの絶対的な不運。
そして。
本来のチャンスが持っていた。
あり得ないほどの幸運。
正反対の二つの力。
相反する二つの概念が。
この歪んだ世界の中で。
互いを打ち消すことも。
どちらかが勝つこともなく。
第三の結果を生み出した。
「……これだ」
チャンスが呟く。
「これだよ」
その顔には。
完全に。
ギャンブラーの顔が戻っていた。
「俺が探していたものは」
マフィオソが思わず息を呑む。
チャンスは。
笑っていた。
「予測できない結果」
銀貨を見る。
「絶対に起きないはずのこと」
さらに笑う。
「それが起きる」
チャンスは。
銀貨へ顔を近づけた。
「……最高にスリルがあるじゃないか」
そして。
立ち続ける銀貨へ。
「じゃあ」
チャンスは。
優しく息を吹きかけた。
「決着をつけようか」
フッ。
銀貨が。
わずかに揺れた。
カタッ。
そして。
パタン。
静かな音を立てて。
倒れた。
「……」
チャンスは目を細める。
銀貨に刻まれていたのは。
「表」。
「……ハハ」
チャンスは笑った。
今度こそ。
本当に楽しそうに。
「表か」
マフィオソが呆然とする。
「……結局、表なんじゃねぇか」
チャンスは銀貨を拾い上げた。
「そうだね」
「じゃあ普通のコイントスじゃねぇか」
「違う」
「何がだよ」
チャンスは銀貨を指先で回しながら。
楽しそうに笑った。
「立ったんだよ」
「……」
「コインが」
そして。
「それだけで十分だろ?」
白銀の世界に。
久しぶりに。
チャンスの笑い声が響いた。