テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
春の風が、窓からふわりと入り込む。
桜はもうほとんど散っていて、外には新しい緑の匂いが広がっていた。
中学2年、最初の朝。
佐藤直人は、教室の後ろの席に座って、深くため息をついた。
「……はぁ」
隣の席は、まだ空いている。
というか、すでに5分遅刻している。
(絶対、寝坊してる。100%、寝坊してる)
そしてその予感は、ほぼ同時に的中した。
「はーいはーいごめんなさーいっっっ!!!」売気だけは満点の声が、ドアの外から響く。
姿を現したのは、ボサボサの髪、シャツは半分出し、ランドセルのようにリュックを背負ったーー
「……おまえさぁ」
直人は呆れ顔を浮かべた。
「へへ〜!ナオト~いたいた〜!」
こいつは。月島もも。
このクラスでいちばん騒がしくて、いちばん意味がわからなくて、俺の幼なじみである。あ、あとバカ。
「おまえ、何年遅刻してんだよ」
「ん~たぶん、7年?」
「……幼稚園の時から遅刻してたもんな」
「えっ、そうだっけ?記憶ない〜!」
「おい、」
直人はふう、とため息をつきながら、自分の筆箱の位置を少しずらす。
そこに然のように、ももがずんずんと荷物を広げてくる。
「えへへ〜、やっぱ隣って安心するわ〜!ナオト、くしゃみ変わってないね!」
「なんだその情報」
てか、そもそもくしゃみしてねぇし……
その日のホームルーム。
「じゃあ席替えするぞー」
先生が声を上げると、教室にざわめきが走った。
ももは、ぴょこんと手を挙げた。
「先生〜!隣の人は選べますかーっ?」
「選べません」
「ええ~!?ナオトがいい〜!」「やめる、変な誤解されるだろ!」
「え、何が?」
「いや……、誤解なんだよ!!!」
その後のくじ引きでーー
見事にももと直人はまた隣同士になった。
「運命じゃん!!」
「呪いだよ……」
席替えが終わり、あらためて教室に整った空気が流れたーーかと思ったが、そうでもなかった。
なぜなら、月島ももがいたからだ。
「ねぇナオトお~、もも、今年こそ通知表で”知性”って言葉もらえると思う?」
「通知表に”知性”なんて書かれねぇよ」
「えっ?うそ?“情熱”って書いてあるの見たことあるよ!」
「それは先生が困って書いたやつだろ…..」
ももは、机に突っ伏しながらニコニコしていた。
ランドセルの名残を感じる赤いリュックの口が開きっぱなしで、中からぬいぐるみの耳がひょっこり飛び出ている。
「ねえナオト、給食の時間になったら、牛乳2本とってきてくれる~?」
「おまえの分くらい自分で取りに行けよ」
「でも、今日 “もも牛乳禁止”って家で言われたんだよね」「でもナオトがくれる分なら合法だと思って…….」
「おまえの家庭、法律どうなってんの?」
「法律って、ナオトってば〜面白い〜笑」
「うるせぇよ」
ホームルームが終わり、1時間目は国語。
国語担任の田島先生が、教科書を持って入ってくると、ももは何も言わずにすっと立った。
「はーい、先生!音読なら任せてくださーい!」
「まだ頼んでないんだが」
「予習してませんけど、本番に強いタイプで一
す!」
「頼んでないって、」
だが、ももはそのまま勝手に読み始めた。
「”ぼくは、くじらとともだちになりました”ーーえっ!?うらやまっ!!」
「感想入れんな」
「くじらって、どの種類?シロナガス?それともメガロドン?」
「後者は絶滅してるわ!!」
教室の半分が笑いをこらえている。
もう半分は、普通に笑っている。
直人はため息をついて窓の外を見た。
(……今年もきっと、静かな日常にはならねぇんだろうな)
でもそのときーー
ももが、何かをじっと見つめていた。
外を。空を。
「ねえ、ナオト」
「ん?」
「くじらってさ、空にいたら、なんか変だよね」「変どころか、地球壊れるわ」
「……じゃあ、空にいるのは、くじらじゃなくて、夢ってことでいっか」
一瞬だけ、ももの目が真面目だった。
直人は少しだけ黙った。
「……なんで急に詩人みたいになるの、おまえ」
「えへへ~。先生、もう一回音読していーい?」
「ダメだ。静かにしてなさい月島」
給食の時間。
牛乳のストローを指す音が、ランチルームのあちこちでプスプスと鳴っている。
直人は黙って、自分の揚げパンをちぎって食べていた。
目の前には、すでに”事件の予兆”が広がっている。
「…..なあ、もも」
「なに〜?」
「なんで、おまえのパン、植木鉢に入ってんの?」
「育ててる!」
「なにをだよ!!」
ももは、給食の揚げパンをハンカチで包み、教室の隅っこに設置された観葉植物の鉢にそっと差し込んでいた。
その姿はまるで、”希望の種”を植える園芸部のようだった。「パンはね、土に還るんだよ。つまり、また麦に戻る可能性があるってこと!」
「いや、戻らねぇよ。パンはパンだ。おまえが食べるよ」
「でも、なんかこの子…..食べるのかわいそうで……」
「パンに感情移入すんな。おまえはパンを前にすると謎の倫理観発動するよな」
「だってほら、きなこ、涙みたいじゃん?」
「ちがう。あれ粉だ。感傷ぶち壊すな」
その後、パン育成未遂事件は田島先生にバレ、ももは「パンは食べましょう」というシンプルな指導を受けることになった。
ももはしょんぼりしながら席に戻ってきた。
「パン……さようなら……」「葬式すんな。口に入れて供養しろ」
ももはちょっと悩んでから、もそもそと揚げパンにかぶりついた。
……おいし……」
「だる。もともとそういう食べ物なんだよ」
「なんかナオトって、たまに仏さまみたいなこと言うよね」
「むしろおまえが前世に仏門の試練課してる気
分だわ」
午後の授業。ももはお腹いっぱいになって、ノートの端に落書きを始めた。
描かれていたのはーー
“空を飛ぶパン”と、それを追いかける謎の少女。
「ねぇナオト、もしもパンが空を飛べたらどう
する?」「その話、あとで聞くわ」
「じゃあ明日話すね!」
「まだ続くの!?」
***
その日の帰り道。
直人はランドセルのようなもものリュックを見ながら思った。
(たぶんこいつは、変わらない)
(ずっと、こうして、空想とバカをまぜこぜに
して一一)
でも、そういうももが隣にいる毎日は、たしかにちょっとだけ退屈じゃない。
「…..おいもも。明日も遅刻すんなよ」
「うん!がんばる!……って、あ、明日って何曜日だっけ?」「火曜日だよ。今日が月曜日だ」
「えっ、じゃあ明日って火曜日!?」
「…..おまえ、曜日も怪しいのかよ…….帰り道、春の陽射しはすこしだけ角度を変えて、ふたりの影を長く伸ばしていた。
ももは制服のリボンをゆるめながら、足示に落ちた花びらをじっと見ていた。
何か考えているような、何も考えていないようなーーもも特有の、空っぽで自由な顔。
「ナオトさ」
「ん?」
「来年も隣の席がいいな」
直人は一歩だけ立ち止まり、ももの横顔を見た。
言葉の意味を探るでもなく、自然に口を開く。
「おまえ次第だろ。毎回クジで同じ席引いて
みろよ」
「そっか、ももって運命操作系女子かも……」
「語感だけで話すな」ももは笑った。
そして少しだけ、歩く速度を緩めた。
「…..ずっと一緒にいられると思ってたの。幼稚園のころ」
「なんだ急に」
「でもさ、席替えもあるし、クラス替えもあるし、高校もバラバラかもだし」
「おい」
「えへへ、だから、今のうちにこういう風に居られたらなって思ってさ」
直人は少しだけ黙ってから、ふうと鼻で笑った。
「もう十分だけどな、 」
「なんで!」
「っていうか、ももが居なくなったら……
それこそ世界が終わるわ」「なんで?ももが居ないと寂しい?クスクス」
「こいつ!」
「でも、ナオトに見せたいね〜あること、」
「何を」
「人類の安定!」
「責任がデカすぎるわ」
ふたりの歩幅は、自然とそろっていた。
誰が何も言わなくても、ずっとそうだった。
そしてーー
春風に吹かれて、もものリュックのポケットから、ぬいぐるみの耳がぴょこんと揺れた。
それは、なんでもない日常の中にある、ささやかな異常。
けれども、そんな毎日こそが、たぶん、かけがえのないものなのだ。