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「明後日はお給料日だね。あまり聞いて良いことじゃないかもしれないけど……ノアは、お給料は何に使うのかな?」
ぎゅっとノアの腰を抱いたまま、アシェルが唐突に切り出した。
「そうですね、ほとんどは孤児院に仕送りしていますが、そろそろ──」
「そっか。ノアは優しいね。でも、せっかく自分で稼いだお金なんだから、ちょっとは自分の為に使ってごらん」
「……ううーん、自分の為にですかぁ」
これは退職願いを口にするチャンスだと思ったノアではあるが、さらりと話題が変わってしまい渋面を作ってしまう。
「欲しいものはないのかな?」
「ないですよ」
「キノコも?」
「キノコは好きですけど、どっちかっていうと自分の手で新種のキノコを見つけるのに喜びを感じているので、市場に行って買おうとは思いませんね」
市場で購入できるキノコは既に食べつくしているし、お城で高級キノコも毎日食べさせていただいているから、お給料で買う必要はないのだ。
そんな理由も付け加えたら、アシェルは「なるほどね」と言って、くつくつ笑う。
アシェルの顔は今、ノアのお腹にくっついている。だから彼が笑うたびに、お腹が揺れて少しくすぐったい。
思わず身を捩れば、それを阻止するようにアシェルの巻き付く腕の力が強くなる。
「じゃあ、誰かに何かを贈りたいとも思わない?」
「ですから、孤児院に仕送りしてますよ」
くぐもった声で問われても、同じ答えしか返せない。それにしても、なんで同じ質問を繰り返すのだろう?
そんな疑問が生まれたが、きっとアシェルは自分がした質問すら忘れるくらい疲れているのだろう……と、思ったが、そうではなかった。
「違う違う。特別な誰かに、贈り物をしたいんじゃないかなと思ってさ」
”特別な誰か”その含みのある響きに、ノアはまったく気付くこともしないで「いないですよー」とあっけらかんと答える。
実際、居ないのだ。孤児院の仲間も、ロキも、かけがえのない存在だが、ノアにとったら一括りの複数形で、特別な誰かではない。
もちろん恋慕う相手もいないし、そういう出会いも皆無だ。
やましい気持ちゼロで即答したノアに、アシェルは「……そっか」と呟く。つまらなそうというよりは、何かそこに思惑があるような響きだった。
それに気付かないノアは、今こそ退職を切り出すタイミングだと、意を決して口を開く。
「あのう殿下、実はですね、私明後日のお給料をいただいたらそろそろ……え?」
アシェルから、規則正しい、微かな息遣いが伝わってきた。
(寝ちゃったかな?)
授業を免除してもらう代わりに膝を差し出したので、このまま寝られることに対して意義を唱えるつもりはない。
それに心地よく寝てもらえると、飼いたての子犬から心を許されたような気分になる。
「……ゆっくり休んで下さいね。殿下」
ノアは、そっとアシェルの前髪に触れた。
さらさらとした銀色の髪は、指の隙間をすり抜けてアシェルの顔を隠す。
(寝顔を見るのは、失礼だよね)
デリカシーの無い奴と思われるのは不本意なので、ノアは眼を閉じる。
雨は相変わらず、ざあざあと降り続いている。
その音がまるで子守歌のように心地よく──気づけば二つの寝息が重なった。
*
しばらくして執務室に響いていた寝息が一つに減り、ノアの膝でうたた寝をしていたアシェルが静かに身を起こした。
「寝顔、可愛いな」
ソファの背に身を預けて眠っているノアを、アシェルはそっと横たえ、端にあったクッションを枕代わりにノアの頭の下に差し込んだ。眼が見えてないはずなのに。
それから執務机に腰掛けた途端、カチャリと扉が開き、側近その1であるイーサンが姿を現した。
「おや、寝てますか」
「……しっ、まだ起こすな。疲れているんだから、しばらく寝かせてやれ」
厳しい声で命じられた側近は、こくこくと頷く。
ノアは知らないけれど、本来アシェルは決して穏やかな人間ではない。どちらかと言えば、冷徹で感情の起伏が少なく、ローガンより遥かに王の威厳が備わっている。
そんな彼が、ノアにだけ穏やかに優しく紳士的に接するのは、とある目的の為に、ノアを一日でも長く留まらせる必要があるからだ。
怖がらせてはいけない。そして、自らここにいたいと思わせなければならない。
そのため、当初は意識して紳士を演じていたけれど、今では意識せずとも、ノアに対してだけ優しく接してしまう。
自分でも不思議に思う行動は、恋心からくるものだが、アシェルは自覚がない。
「ノアはね、どうやら特定の男を好いているわけじゃないみたいなんだ。……良かった」
「あー、そうですか」
「でも、どうやら孤児院には帰りたがっているみたいなんだよね」
「まぁ、生まれ育った場所ですから里心が付くのは当然でしょう?」
「ここが居心地悪いっていうことか?」
「……殿下、めっちゃ面倒くさいです」
小声でコソコソ会話をしている内容は、おおよそ国にその身を捧げた人間の者ではない。
しかし、アシェルは焦っていた。側近につい愚痴ってしまうくらいに。
ノアは仮初の婚約者としては申し分ない働きをしてくれているが、アシェルとしては「仕事だ」と割り切られる度に、言いようのない苛立ちと、もやもやを覚えてしまうのだ。
しかも、どうして自分がそこまで感情的になるかわからないことに対して、更に苛立ってしまう。
認めるのは癪だが、確かに面倒くさい人種になっている。
「……で、予定通り進んでいるか?」
「もちろんですよ。手紙も預かっていますが、それは明後日の方が効果的だと思いますので、当日渡します」
「ああ、そうしてくれ」
イーサンから望む返答をもらえて、アシェルの気持ちは少しは落ち着いた。
ノアには申し訳ないが、アシェルは決めている。
たとえ目的を果たしたとしても、ノアは絶対に手放さない。