ノアは、マッシュルームの柄がポキッと折れる音がこの世で一番好きな音だ。
次に、熱したフライパンに、バターとキノコを入れた時のジュッという音。これは、目覚める時に毎朝聞きたい。
三番目は急に下世話なものになるが、チャリンという硬貨の音である。
え?そこは、キノコじゃないの??というツッコミは、遠慮してほしい。
この世の中、働かなければ生きていけない。そして懸命に働いた対価をいただく時は、誰だって嬉しいはずだ。
たとえ、年中キノコさえあれば幸せなノアだって、例外ではない。
本日はノアのお給料日であり、退職予定日でもある。
しかしノアは、まだアシェルに、退職する意思を伝えていない。
誓って、なんかもう面倒くさいと思って、『報・連・相』を放棄したわけではない。執務室で膝枕をしてから今日までの数日間、ノアなりに頑張っていた。
しかし、切り出そうとした矢先、側近とグレイアスに邪魔されたり、やれ打ち合わせだ、会議だ、密談と、アシェルは多忙を極め、顔を合わすことすらできなかった。
手紙で伝えるなり、協力者の誰かに伝言を頼むなりすれば良かったのかもしれないが、他人の口から退職する旨を聞かされるアシェルの心情を考えると行動に移せなかった。
(だからといって、ずるずる長居するのもなぁ……)
内緒のお仕事なので、お給料の出所は、アシェルのポケットマネーから。
王子様の懐事情など、一般国民が知る由もないし、知ってはいけないことだけれど、やっぱり気にしてしまうのは、ノアにとってアシェルはもう他人ではないからかもしれない。
なら無償で働けばという案もあるが、ノアは身の丈を弁えている分、シビアだ。仕事として持ちかけられた以上、貰うもんはしっかり戴く所存である。
そんなことを悶々と考えていると、自室の扉がノックされた。
扉を開ければ、側近その1のイーサンが、へらっと笑っている。
「ノアさん、おはよー。起きて……ますね。では、殿下がお呼びですよー」
「……はい」
ノアは、まとまらない考えを抱えたまま廊下に出ると、イーサンと並んで執務室に向かった。
「ノア、おはよう。お茶の時間でも良かったんだけれど、先に渡しておいたほうが良いと思ってね」
執務室に入るなり、にこやかに出迎えるアシェルは、特に忙しそうではない。
そこに違和感を覚えないといけないけれど、現在ノアは、退職の意思をどう伝えるかで頭が一杯だ。
「……ん?どうしたんだい?何だか、元気がないようだね」
もじもじしているノアに、アシェルは眉を下げながら近づいてくる。
まるで第三の目を持っているかのように、アシェルは目を閉じていても机に脛を当てることも、ソファにつまずくこともしないで、真っ直ぐ歩き、ノアの前に立つ。
「何があったか、話してごらん」
そう言いながらノアの頬に触れるアシェルの手つきは、どこまでも優しい。
しかし口調は、有無を言わせない重みがあった。
(う……もう、言うしかないな)
雇用主からの命令に逆らえないノアは、覚悟を決めて口を開いた。
「急なお知らせになって申し訳ないです!!実は……実は、ですね!今日でお仕事を終わらそうと思っていま───」
「ノア、ちょっと声を落とそうか」
意気込みすぎて大声になってしまったノアの口を片手で塞いで、アシェルはたしなめる。
ノアがこくこくと何度も頷いたのを確認すると、アシェルは手を放しつつ、肩も落とした。
「……そっか。もともと期間限定のお願いだったから、無理に引き留めることはできないね。……うん……そっか。そっか……もう私は、ノアとは一緒に居られないんだね……そっか」
”そっか”という言葉がどんどん寂しさを帯びていって、ノアは小さな声で「ごめんなさい」と頭を下げることしかできない。
(うぅ……申し訳ない!胸が痛いよう。そんな顔しないで……なんてこと、言えないけど)
そうさせているのは他でもない自分なのだから、言う権利はないのはわかっているが、”お仕事だから”と割りきれるもんじゃない。
目の前の盲目王子は自分が居なくなったあと、また、お見合いをせっつかれる日々に戻っちゃうんだろうなーとか、一人寂しく離宮のお庭でお茶を飲むんだろうなーとか、絶対に今は考えてはいけないことばかり、頭の中でつらつらと浮かんでくる。
(そういえば、殿下は国王様になんて言うんだろう??)
すっかり忘れていたが、この婚約はアシェルが国王陛下に直談判してもぎ取ったもの。そして、それを証明する書簡まで用意したのだ。
ノアは実際それを見てはいないが、きっと国王陛下直筆サイン入りの書簡なのだ。だってあのローガンが、あっさり認めたのだから。
そんな絶大な効果を発揮する書簡を白紙に戻すということは───
(え?それ、相当大変じゃないの!?っていうか、そもそもできるの??)
我ながら間抜け過ぎるとは思うが、今頃になってノアは事の重要さに気づいてしまった。
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