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“あの日、私だけが取り残された坂道”
Episode 02 #沈黙の食卓と、偽りの証明
「美咲、出しなさい」
お母さんの声は静かだったけれど、だからこそ余計に冷たく私の鼓膜に刺さった。
ごまかしきれない。私は震える手でカバンのチャックを開け、奥底にくしゃくしゃになりかけていた数学のテスト用紙を取り出した。
差し出された紙を、お母さんはひったくるようにして受け取る。
右上に大きく書かれた赤い数字を見た瞬間、お母さんの眉間がピキリと険しく歪んだ。
「……何、これ」
「平均点が、低くて……みんな、難しかったって……」
苦しい言い訳が、口をついて出る。それは半分本当で、半分は嘘だった。確かに平均点はいつもより低かったけれど、私はその平均点にすら、10点以上も届いていなかったのだから。
「みんなが難しかったから、あなたもこの点数でいいっていうの?」
お母さんの声が鋭さを増す。
「美咲、あなた、高校に入ってからずっとこうじゃない。部活が忙しいのを言い訳にしてるんじゃないの? 高いお月謝を払って塾にだって行かせているのよ。中学の貯金があるからって、高を括っていた結果がこれ?」
違う。高を括ってなんていない。サボってなんていない。
部活が終わって、へとへとになりながらも、私は机に向かっている。千尋みたいに「全然勉強してない」なんて言って笑う余裕もない。それなのに、どうして。
「お医者さんになりたいんでしょう? そんな夢みたいなこと言っておいて、この点数でどの口が言えるの。現実を見なさい。こんな成績じゃ、普通の大学だって怪しいわよ」
胸の奥が、ドロドロとした黒い塊で満たされていく。
お医者さん。
その言葉が、今の私には一番重い呪いだった。
中学の時、親戚の集まりで「将来は何になりたいの?」と聞かれて、特にやりたいこともなかった私は、テレビのドラマで見た「お医者さん」という言葉を何となく口にした。
その瞬間、周りの大人たちの目の色が変わった。
『さすが美咲ちゃん、頭がいいんだね』『立派な夢だね』
その称賛が心地よくて、私は聞かれるたびにその嘘を繰り返した。お母さんも、私の夢を自分の自慢であるかのように近所に触れ回った。
本当は、もう変えたかった。
医者になんてなれる頭がないことも、血を見るのが本当は苦手なことも、全部わかっている。でも、今さら「あれは嘘でした」「別の道に行きたいです」なんて言ったら、お母さんはどんな顔をするだろう。私の存在そのものを否定されるんじゃないか。そう思うと、怖くて言い直すことができなかった。
「……ごめんなさい。次は、頑張るから」
私はただ、頭を下げることしかできなかった。
その日の夕食は、まるでお通夜のようだった。お父さんは無関心を装ってテレビを見ていて、お母さんは一言も口をきかない。カチャカチャという箸と皿の擦れる音だけが、息苦しいリビングに響いていた。
翌日、学校へ行くと、廊下は次の英語の小テストの話題で持ちきりだった。
私は朝早くに教室に入り、単語帳を必死に見つめていた。一文字でも多く暗記して、昨日の数学の汚名を返上しなければならない。
「おはよー、美咲。朝からガチ勉強じゃん、さすが〜」
千尋が、軽い足取りで私の席の前にやってきた。その手には、菓子パンの袋が握られている。
「千尋、英語のテスト、勉強してきた?」
「え? ううん、全然! 昨日テレビ観てたら寝ちゃってさ。まあ、なんとかなるっしょ!」
千尋はけらけらと笑う。
その笑顔を見るだけで、私の心の中の醜い感情が鎌首をもたげる。
(どうせ、また嘘。勉強してないって言いながら、本当は家でやってるんでしょう。私を油断させるために言ってるんでしょう)
そう思わなければ、自分の心が保てなかった。
けれど、1時間目のテストが始まって、数十分後。
返却された英語の小テスト。
私の点数は、15点満点中「11点」。ケアレスミスを連発していた。
そして、私の斜め前に座る千尋の机の上には――満点を意味する「15」の数字が、堂々と輝いていた。
「あ、満点だ。ラッキー」
千尋は小さく呟いて、プリントを筆箱に突っ込んだ。
頭が、真っ白になった。
嘘じゃない。あの子は本当に、直前にちょっと見ただけで、あるいは授業を聴いていただけで、この点数を取ったのだ。
私が睡眠時間を削って、血を吐くような思いで覚えた単語を、あの子は平然と、一瞬で追い抜いていく。
中学の時は、私の後ろを歩いていたはずなのに。
どうして、私より上に行くの?
お願いだから、私より上に行かないでよ。私から、唯一の居場所を奪わないでよ。
放課後、部活の着替えをしながら、私は涙が溢れそうになるのを必死で堪えていた。
誰もいない部室の鏡に映る私は、ひどく惨めで、ボロボロだった。
眠いですね💤
では、また次回
コメント
1件
那月さん、第2話読了しました……🥀 お母さんの「お医者さんになりたいんでしょう?」の言葉が、美咲にとって単なるプレッシャーじゃなくて、自分で撒いた嘘の種の重さになってのしかかってる描写、すごく胸が痛かったです。頑張ってるのに報われないもどかしさと、千尋への嫉妬の入り混じった感情、すごくリアルでした。「お願いだから私より上に行かないで」ってセリフに、美咲の孤立感が全部詰まってて……次が気になります。
#現実世界
雪代 真希奈
107
#進化
雪代 真希奈
25
#儚い
nanaha.
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