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見とれてしまっていて、ハッとする。
慌てて背中にお礼を言った。
「ありがとうございました! 」
彼は背中を向けたまま手を振った。
エコバッグの中を確認するけど何一つなくなっていなかったし、触った形跡もなかった。ただ、誰かが取りに戻ってくるのを待ってたってこと……?
靴ずれはまだ痛い。けど、気にならないくらいには愉快な出来事だった。――日本って平和だなぁ。
それにしても、綺麗な男の人だった。どこかで見たことがある。あんなかっこよかったら一度見たら忘れるはずないんだけど。最近会った仕事の人とか、友人関係、訪れた店の店員さんに至るまで辿るように思い出してみたけど、彼が出て来ることはなかった。
電車で揺られながら、一瞬見ただけの彼を記憶の中で探していた。
どこだっけ、誰だっけ。誰かに似てるだけかな、芸能人とか。
電車がガタンと揺れて横のつり革が頭にコツンと当たった。っ、痛い。痛いし恥ずかしくて誰にも見られていなかったかと車内を見回す。その瞬間、ふっと記憶が戻りさっきの彼の笑顔と重なった。
あの人だ!
朝の通勤電車、時々会う素敵な人。あの人に会えたら今日はラッキーだなって思ってた。あの人だ!どうしてすぐに気が付かなかったんだろう。
思ったより、声も良かったし、しっかりして、優しいし、ちょっと意地悪だった。総じて好印象だ。あの人と話す日が来るなんて、なんだか不思議。
――家に着くと玄関でパンプスを脱いだ瞬間足の痛みを思い出した。思ったよりひどい。
消毒……いっか。先にお風呂に入っちゃおう。
今日は本当にいろんなことがあった。なんて日だろう。
だけど思ってもみない縁に最後に少しだけクスリと笑えた。
ほんと、今日は――なんて日だろう……。
――翌朝。
昨日は疲れ果てて寝てしまった。
気持ちが沈んでいないのが幸いだ。いや、むしろ……。
まずは昨日そのままにした散らかった服や小物を片づける。その後はいつも通り休日に済ませる掃除や洗濯を終え、一息つく。頂いた引き出物、セレクトギフトに目を通しながら考える。
私が結婚する時は――。ハッと自分の思考に口角が上がった。
そうだ、私――結婚したい。すごく。
それを認めると心がぐんっと軽くなった。今更かもしれないけど、でも……人生で今が一番若いんだからとにかく後であの時もっと動いておけば、なんて後悔しないためにも結婚するために頑張らなきゃ。
過去、私は眞鍋くんとも両想いだったし、無理だと気持ちをセーブしてた無理目の橘さんだってイケた。三宅くんだって私をそういう目で見てくれた。――私が好意を伝えていれば、そう思わないわけじゃない。だけど、もう済んだことだ。
今からはもし少しでもいいなぁと思う人ができたら絶対に自分から好意を伝える。絶対にそうする。
私は固く決心した。
それから……決心を胸に、淡い期待と向き合った。昨日のあの人、次会ったら声をかけてみようかな。昨日のお礼を言って、そしたら挨拶し合うくらいの仲にはなれるかもしれない。
私に足りなかったのは、気があることを態度に出すことと好意を伝える勇気。もう二度と知らずにチャンスを逃し、後から知るようなことにはなって欲しくない。
私の胸には昨日からずっとチラチラと彼の顔が浮んでいた。月曜日、同じ電車に乗れるといいなぁ。
ギフトは早速ペアのグラスを見つけて、頼むことにした。一緒に使える人が出来るといいなぁ。そう期待を込めて。
――この日の妙な決心が、私の人生を変えたんだと後になって気づくことになった。
――月曜日。
もしかしたら彼に会えるかもしれないから、いつもより早く起きて身支度を念入りに整える。
こんな期待を孕んだドキドキする気持ちは久しぶりだった。長く恋もしていないもんな……。いや、これは恋じゃないから。単に、単に、何だろうか。目の保養相手と知り合いになっただけ。生活のハリってやつだ。
ドキドキしながら電車に乗り込む。
それなりの混雑の中、車両を見回すとくすみカラーの紫がかったグレーのスーツが目に入る。目当ての人の顔を見つけ鼓動が早くなった。
どうしよう、声をかける?何かお礼でも用意した方が良かったかな……。心の準備はしたはずなのにただ動揺するばかりで何も出来なかった。
じっと見つめていたら視線を感じたのか彼と目が合った。ドキッとして一瞬で顔が熱くなった。何か言わなくちゃ。そう思っているうちにフイと顔を逸らされた。
全くの知り合いじゃない関係性だと当然の反応で、そのことから悟った。彼は私を覚えていない。血が上った顔が一瞬で冷える。
もしかすると、向こうから『春美ちゃん』なんて声をかけられるかもと思っていたのが恥ずかしい。一人盛り上がっていた気持ちがみるみるしぼんでいった。
彼にとっては、一瞬の出来事で、相手が誰でもそうしたはず。私が一方的に縁があると思いたいだけで、向こうは特段縁を感じていないわけで、この反応は当たり前で自然なことだ。勘違いして前のめりの行動を起こさなくて良かった。恥ずかしさが落ち着くと何もしなかったことに胸を撫でおろした。
ああ、もう、恥ずかしい。
私はこのまま、『時々見かける素敵な人』という関係で満足することにしようと思った。
それで、婚活を始めよう……。
自然な出会いってなかなか無いもの。少し虚しいけど、目の保養に高望みはしちゃいけない。現実って、こういうものだ。
コメント
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うわあ……「覚えてない」の一瞬で冷める感じ、すごく分かります。自分だけが盛り上がってたんだなって気づく瞬間の切なさが、地味に効いてきました。それでも「目の保養で満足しよう」って切り替えるところに、彼女の現実的な強かさも見えて、結構好きです。不思議な縁で始まったエピソードが、日常に戻っていく塩梅が絶妙でした。