テラーノベル
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ゆうき あきや
1,550
259
#心理描写重視
第9話:シロ、もしかして浮いてる?
スマートフォンから絶え間なく鳴り響く、高額ギフトの通知音。
アラビア文字のユーザーネームから連続で投げ込まれた「¥50,000」の真っ赤な帯が、画面の右端を暴力的なまでの極彩色で埋め尽くしている。その数、なんと10回。
「ごまんえんが、じゅっかいで……ごじゅうまん、えん……」
先ほどは乾いた笑いしか出なかったが、冷静になって改めてその合計金額を呟いてみると、俺は縁側の柱に背中を預けてズルズルと座り込んでしまった。
ブラック企業で身を粉にし、理不尽な上司のパワハラに耐え、胃薬をフリスクのように囓りながら稼いでいた俺の血と汗と涙の結晶。何ヶ月も節約してようやく貯まるような大金。
それが、たった今。昨日拾ったばかりの謎の白い毛玉が、荒れ果てた庭の土を前足で『ぽんっ』と叩いただけで稼ぎ出されてしまったのだ。
資本主義のバグだ。いや、それ以前に物理法則すら完全にバグっている。
目の前に広がるのは、たった数分前までガチガチの粘土質とスギナの根で覆われていたはずの絶望的な荒れ地。それが今や、ホームセンターで一番高い値段で売られているような、ふかふかの黒土(約50坪)に完全リニューアルされている。トラクターの跡すらない、完璧で平らな奇跡の土壌だ。
『主、息してるかー?』
『石油王のギフト爆撃で主がフリーズしたぞww』
『そりゃフリーズもするわ。俺だって画面の前で変な声出たもん』
『てか、シロ様はマジで何者なんだよ。あの光、絶対映像エフェクトじゃないだろ』
『世界中からギフトが止まらねぇ……これ、今日だけで家建つんじゃね?』
同接(同時接続者数)はすでに5万人を突破していた。
海外の視聴者からの英語やスペイン語、アラビア語のコメントが滝のように流れ、Google翻訳の処理速度すら凌駕する勢いでチャット欄がスクロールしていく。
俺は深く、長いため息を吐いた。
「……まぁ、いい。深く考えるのはやめよう」
ここは北の大地。見渡す限りの大自然と、澄み切った青空が広がる限界集落の古民家だ。
俺が都会から逃げるようにして求めていたのは、誰にも邪魔されない、心穏やかなスローライフ。
その過程で、たまたま庭が一瞬で極上の畑に変わり、たまたまドバイの富豪から50万円のお小遣いをもらっただけだ。些細なことである。……うん、非常に些細なことだ。
そう自分に言い聞かせ、無理やり納得のハンコを脳内で押した、その時だった。
『……ミャウ』
ふと、足元から甘ったるい鳴き声がした。
視線を落とすと、奇跡のグラウンド・ゼロから縁側に戻ってきたシロが、俺を見上げていた。
サファイアとアンバーの神秘的なオッドアイが、「ちょっと、私頑張ったんだけど? ご褒美のおやつは?」と雄弁に語りかけている。
「お、おう……そうだな。シロ、大活躍だったもんな。さっき『美味いマグロをお取り寄せする』とは言ったが、今すぐ届くわけじゃない。ちょっと待ってろ、とりあえず今日は昨日スーパーで買ってきた、手持ちで一番高い猫用のおやつ(といっても数百円だが)を出してやるから……」
俺が立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間。
「…………ん?」
俺の目は、シロの足元に釘付けになった。
いや、正確には『足元と縁側の床板の間にある空間』に。
シロの純白の四肢は、ピンと伸びている。
しかし、その可愛らしいピンク色の肉球は、木目の床板に触れていなかった。
1センチや2センチの誤差ではない。文庫本を縦にしたくらい――およそ10センチほど。
シロは、空中に『浮いて』いた。
「………………」
俺は目を擦った。寝不足か? いや、シロのマイナスイオン効果で、俺の視力はかつてないほどクリアに回復しているはずだ。
もう一度見る。
やっぱり、浮いている。
ジャンプの瞬間をカメラのシャッターで切り取ったわけではない。シロは「早くおやつ頂戴」と言わんばかりにふさふさの尻尾をパタパタと振りながら、空中を『ホバリング』しているのだ。傾きかけた西日が、シロの足の下の空間を通り抜け、床に不自然に切り取られた影を落としている。
『ミャーウ?(まだー?)』
空中に浮かんだまま、シロが小首を傾げる。
そのたびに、体が上下にフワッフワッと、見えない風船に乗っているかのように揺れる。
俺の脳味噌(CPU)は、ここで完全に処理限界を迎えた。
一瞬で畑を作り出す謎の光。
ドバイからの50万円の赤枠の高額ギフト。
そして今、目の前で完全に重力をガン無視して宙に浮きながらおやつを要求してくる白い毛玉。
「……なるほど」
俺は、とても穏やかな、悟りを開いた僧侶のような声で呟いた。
「田舎の猫っていうのは、元気なんだな。足腰の筋肉が極限まで発達しているから、ジャンプしたまま空中で一時停止できるんだ。……うん、きっと北海道の澄んだ空気はマイナスイオンが多くて、浮力が強いんだろう。それなら仕方ない。大自然の摂理だ」
限界社畜時代に培われた『不都合な事実は見なかったことにするスキル』が、ここに来て極限まで研ぎ澄まされていた。
心を無にして、台所へと向かう。
戸棚から、昨日買っておいた『極上まぐろピューレ(無添加)』を取り出し、小皿に絞り出す。
しかし、俺が現実逃避をキメて精神の安寧を保っていても、三脚に固定された無慈悲なスマートフォンのカメラレンズは、その異常事態を克明に捉え、全世界5万人の視聴者へと生配信し続けていたのだ。
『……おい』
『え?』
『ちょっと待って、今、シロ様……』
『浮いてね?』
『は??????』
『いやいやいやいや、待て待て待て。遠近法? 錯覚?』
『床と足の間にガッツリ隙間あるぞ!! 完全に浮いてる!!』
『ニュートンが泣きながら墓から這い出てくるレベルの物理法則無視きたこれwwww』
『畑を錬成したと思ったら次は反重力かよ!! やりたい放題か!!』
『Oh my god! Levitation!?(オーマイガー! 空中浮遊!?)』
『Jesus… Is this magic?(ジーザス……これが魔法か?)』
チャット欄は、先ほどの『畑錬成事件』を軽々と超える阿鼻叫喚のパニック状態に陥っていた。
そりゃそうだろう。猫が宙に浮いているのだ。超能力特番でも今どきやらないようなベタな空中浮遊を、一切のワイヤーアクションなしでやってのけているのだから。
『主ィィィ!! お前なんでそれ見て普通におやつ準備できんだよ!!』
『スルーすんなwww 突っ込めwww』
『主の適応力が高すぎて怖い』
『限界社畜からドロップアウトすると、猫が浮いてても「田舎の猫は元気だな」で済ませられるようになります(ライフハック)』
視聴者からの怒涛のツッコミを背中に浴びながら、俺は小皿を持って縁側に戻ってきた。
シロはまだ、地上10センチの空中でフワフワと待機している。
「ほら、シロ。特製おやつだぞ」
俺が小皿を床に置くと。
『ニャン!』
シロは嬉しそうに一声鳴き、スッ……と重力を思い出したかのように、音もなく床に着地した。
そして、何事もなかったかのように、ペロペロとピューレを舐め始めた。
その瞬間、シロの体から極上の『神聖オーラ』が、物理的な淡い光の粒子を伴ってフワァッと縁側いっぱいに広がった。
画面越しの視聴者たちにも、その常識外れのマイナスイオン波動が直撃したらしい。
『あ……あぁ……』
『浮いてるとか、物理法則とか、もうどうでもよくなってきた……』
『尊い……一心不乱に食べてる姿が天使すぎる……』
『画面から光の粉が見える……俺、疲れてんのかな……いや、最高に癒やされる……』
『(ドバイの石油王からの¥10,000ギフト)=”He is floating. But he is beautiful. No problem.“(彼は浮いている。しかし美しい。問題ない)』
暴動寸前だったチャット欄が、シロのお食事シーンから放たれる圧倒的な『癒やしパワー』によって、一瞬にして強制鎮火されていく。
誰もが皆、小難しい理屈や物理法則を考えることを放棄し、ただ画面の中の神々しいもふもふに心を委ねていた。
「……よし。今日も平和だな」
俺は縁側で冷めたお茶を啜りながら、ピカピカに平らげられた小皿を満足そうに舐めているシロの真っ白な背中を撫でた。
手から伝わる、極上の絹のような手触りと、全身の疲れを吹き飛ばす温もり。
口座の残高はバグり、庭は魔法の土に変わり、猫は重力を無視して空を飛ぶ。
でも、この圧倒的なストレスフリーと至福の時間があるなら。
俺の常識外れなスローライフは、きっと間違っていない。いや、大正解だ。
「さて、明日は小春ちゃんと一緒に、この奇跡の畑に植える野菜の種でも買いに行くか」
お腹いっぱいになって再び丸くなり始めたシロを眺めながら、俺は大きく伸びをした。
この平穏で異常な日常が、さらに世界中を巻き込むエンターテインメントへと発展していく未来から、俺は全力で目を背け続けることに決めたのだった。
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コメント
1件
シロ、完全に浮いてますね…!主人公の「田舎の猫は元気だから」と無理やり現実を受け入れようとする姿に笑いながらも、あの神聖オーラの癒しにはすごく共感しました。視聴者たちの困惑とその後強制鎮火される流れも面白くて、この異常な日常がどうスローライフとして定着していくのか、続きが気になります!