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4(沙也加)
「それより、探したよ」
そう言って、柏木さんは小さくため息を吐きました。
「本を買って戻ってみたら、新刊コーナーに居なかったから」
私は「ごめんなさい」と頭を下げ、柏木さんの様子を窺いながら髪を漉きつつ、
「でも、本屋さんって不思議な魔力を秘めていると思いませんか? 沢山の本が並んでいて、その一つ一つにそれぞれの世界があって。私、その世界を眺めているうちに、どんどん我を忘れていっちゃうんです。次から次に本を開いては、その世界を渡り歩く旅人になったような、そんな気持ちになるんです。今も気づいたら写真集をめくっていて、誰か横に立ってるなって思ったら、柏木さんで驚きました。でも、本当に大丈夫ですか? 仕事でお疲れなんじゃないですか?」
すると柏木さんは、
「本当に大丈夫だから、安心して」
と言って本棚に顔を向け、一つ頷きました。
「でも、沙也加ちゃんの言うことも俺には解るよ。ここには、数えきれないほどの世界がごまんと収められている。いや、ここだけじゃない。図書館とかもそうだけれど、世界にはもっともっとたくさんの本があって、その本の数だけ現実にはない世界が、どこまでも無限に広がっているんだ」
そんな柏木さんの言葉に、私は遠い昔、お父さんも同じようなことを言っていたのを思い出して、気付くと「ふふっ」と笑っていました。
本当に、柏木さんはお父さんに似ている、そう思ったんです。
もしお父さんが生きていれば、恐らく今こうして隣に立っていたのは、お父さん自身だったのかもしれないと、少し寂しくもなりました。
「――良かった、解ってくれる人がいて」
私はそんな気持ちを隠すように、店内を見渡しながら、
「うちのお母さんもお姉ちゃんも、本なんて全然読まない人だから、私の気持ちを全く理解してくれないんです。そんなに本ばかり読んで何が楽しいのかわからない、そんなだから友達も少なくて、いつもひとりぼっちなんだって。ひどいと思いませんか? 本は色々な世界を私たち読者に見せてくれるんです。今、自分が認識している世界以外にも、色々な世界が世の中にはあるんだってことを教えてくれます。そして私は、そんな世界を生み出している人たちを、心から尊敬しているんです」
「……そうか」
柏木さんはそう呟くように言って、すっと私に視線を向けてきました。
私はその視線に気づき、じっと柏木さんの顔を見つめました。
口では「大丈夫だ」などと言っていましたが、それはお父さんもよく口にしていた言葉だったからです。
柏木さんは私に見つめられて、咳を一つすると、わざとらしく視線を逸らせました。
怪しい、やっぱり何かを隠している。
私は胸が締め付けられるような思いでした。
もしかしたら、柏木さんも何かの病気なのかもしれない。
もしお父さんと同じ病気で、この先何かあったとしたら――
そう思うと、私は気が気ではありませんでした。
お父さんと柏木さんを重ねるあまり、どうしても柏木さんから眼を離すことができませんでした。
もう、どこかの病院に掛かっているんだろうか、もし掛かっていないのだとしたら、どういって病院へ行って検査してもらえばいいんだろうか。
そんなことばかりを考えるようになっていったんです。
けれど、結局のところ、私と柏木さんは赤の他人です。
小説と映画、その二つの趣味を共有する仲ですが、それ以上の関係でもありません。
私にいったい、何を言う権利があるというのでしょうか。
こうして一緒に映画を観に来ているだけでも特殊で、恐らく双方ともに家族には内緒で映画を観に来ているというのに、これ以上何が言えるのでしょうか。
それはたぶん、大きなお世話に違いないと私は思ったんです。
だから私は、こうして柏木さんと一緒に映画を観に行くたびに、柏木さんの体調をつぶさに観察するようになっていきました。
少しでも異変があれば、すぐに救急車を呼べるように。ご家族に連絡ができるように。
柏木さんも、私が心配していることに気づいているのでしょう。それ以来、あまり真正面から顔を合わせてくれなくなりました。常にどこか別の方に視線を向けているというか、あからさまに私を避けているような節さえありました。
ますます体調の悪化を疑った私は、ついにフードコートでの食事中、柏木さんにはっきりと言いました。
「柏木さん、どうして最近、私の方に顔を向けてくれないんですか?」
すると柏木さんは困ったように視線を泳がせ、
「そ、そんなことはない。俺は常に君に顔を向けているよ。ほら、今だってそうだろう?」
ですが、やはりその視線は私の頭の向こう側、遥か後ろに向けられているようで。
「お願いですから、ちゃんと私の方を向いてください!」
気付くと私は、怒りに任せて柏木さんの頬を両手で掴み、真正面からじっと睨みつけていました。
驚きのあまり、目を真丸くして柏木さんは私の顔を見つめました。
しかし、
「や、やめてくれ!」
柏木さんはばっとその手を払いのけると立ち上がり、私に背を向けながら、
「さすがにこれ以上は無理なんだよ!」
と苦しそうに肩を激しく上下させたのです。
やっぱり、何かの病気なんだ。
それを必死に隠そうとしているんだ。
その明らかな体調の異変に私はそう確信し、柏木さんの背中に声を掛けました。
「ご家族の方は、ご存じなんですか?」
「えっ」
と驚いたようにこちらを振り向き、柏木さんは口をパクパクさせながら、
「そ、それはいったい、どういう意味なんだ?」
この焦りようだとたぶん、ご家族も柏木さんの病気の事を知らないのでしょう。このまま一人で抱え込んでいるつもりなんでしょうか。私はそれが信じられませんでした。
「……もしかして、このまま隠し通せるとでも思っているんですか? いつかは絶対にバレるんですから、ちゃんとご家族にも伝えるべきだと思います。いつまでも隠していたって、良いことなんてある訳ないじゃないですか。柏木さんは、いったいこれからどうするつもりなんですか? ちゃんと先の事も考えているんですか? あなたはいったい、どうしたいんですか?」
畳みかけるようにそう口にすると、柏木さんは歯を食いしばるようにしながら、
「そんなことを言われても、家族に話して何になるって言うんだ? 俺は、家族を愛しているんだよ! そんなこと、言えるわけないじゃないか!」
その言葉に、私はそれ以上何も言うことができませんでした。
私のお父さんも、家族にはほとんど何も告げることなく、死んでしまったからです。
もちろんそれがただの強がりとか、家族に心配をかけさせたくないという思いからきているのだということは十分承知しています。
だけど、残された家族はどう思うでしょうか?
私のお母さんもお姉ちゃんも、お父さんが死んだとき、ずいぶん泣いていたのを覚えています。もちろん、私も大声を上げて泣きました。何も言ってくれなかったお父さんを恨みもしました。
だからこそ私は、ご家族にもはっきりと、病気のことを伝えてほしかったのです。
しばらくの間、私と柏木さんの間に沈黙の幕が下りました。
お互いに相手の眼を見つめ合います。
やがて先に折れたのは、柏木さんの方でした。
「……実は、妻にはもう疑われているんだ」
「なら、ここはもう正直に言ってしまった方が良いんじゃないですか?」
けれど柏木さんは頑なに首を横に振り、
「それは……できない。だけど、どうにかする」
「どうにかって――」
それっきり、私も柏木さんも、黙り込んでしまったのです。
それが、先週の日曜日の事でした。
結論は来週の日曜日に持ち越し、柏木さんもそれまでには何とか結論を出したいと言っていましたが、あの様子だとどうでしょう。
正直、信用できません。
「だから私は、クラスメイトの子にこのお店のことを教えてもらって、こうしてお願いに来たんです」
茜さんはこくりと頷き、そして口を開きました。
「沙也加ちゃんのご依頼は、どのような魔法なんですか?」
私は小さくため息を吐き、答えました。
「柏木さんを素直にさせる、そんな魔法はありますか?」