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#夢
凪川 彩絵
画面を見つめたまま、指先がわずかに止まる。
手はキーボードの上に置かれたまま、何も打ち込むことができない。
視線を上げると、周囲の空気が、先ほどよりも一段静まっているように感じられた。
――見られている。
それも、ただの上司としてではなく、判断する側の人間として。
椅子に背を預け、画面を閉じる指が、わずかに重い。
(……社長補佐、か)
心の中で、言葉を転がす。
今朝まで存在していなかった肩書きが、いつの間にか自分の名前の前に付いていて、周囲から固める形で一人歩きし始めている。
新沼晴永という、企画宣伝部企画宣伝課の課長――ではなく、社長補佐。
社長直轄の、経営側の人間としての肩書――。
指先で、机の端を軽く叩く。
ほんの数分前まで、当たり前だった立場が、もう自分のものではないような気がした。
ここにいる自分は――現場の人間ではなく、角実屋フーズ創業家の人間。
そういう〝扱い〟を受ける側に回された。
(――くだらない)
そう思う。
だが同時に、それが現実だとも理解していた。
自分の意思とは関係なく、晴永はもうそちら側に立たされている。
(……瑠璃香には、どう説明する?)
無意識に、視線が通路の向こうへ向く。
そこにいるはずの姿がないというだけで、心が余計にざわついた。
ぽっかりと空いた席。
その空白が、やけに大きく感じられた――。
***
席に着いて、どれほども経っていない。
晴永が、ぼんやりと頭の中で瑠璃香のことを反芻していたとき――フロア内が急に騒がしくなった。
その変化にふと視線を上げると、この階ではあまり見かけない男――藤代有馬がこちらへ近づいてくるところだった。
「新沼様」
低く、抑えた声で呼び掛け、恭しく晴永へ一礼をする。
社長秘書をしている藤代が傅く相手は基本ただ一人――社長の角宮盛晴だ。
その彼が、慇懃な態度で晴永へ接してくる。
それだけで、十分すぎる異常事態だった。フロアの空気が、さらにピンと張り詰めたのも致し方あるまい。
「社長がお呼びです」
簡潔な言葉。
だが、その一言で十分だった。
遅かれ早かれこんな風に物理的にも包囲網を狭められることは分かっていた。
晴永は藤代に聞こえないよう小さく息を吐くと、
「……分かりました」
短く告げて立ち上がる。
視界の端で瑠璃香の席をとらえる。
彼女の席は、いまだ空白のまま――。
〝小笹は?〟と周りに問いたい気持ちをグッと抑えて藤代のあとへ続く。
――今なら、まだ間に合うかもしれない。
藤代へ、ただ一言。
「ちょっと用を済ませてから向かいます……」
そう告げるだけで済む。
だが――。
「お急ぎください。……社長は、待たされるのを好まれません」
藤代が、まるで晴永の思いを先読みしたみたいに、喉元まで出かかっていた言葉を封じてくる。
視線を戻す。
もう、止まることはできない。
「……分かりました」
端的に告げ、まっすぐ前を見つめて歩を進める。
背後に残るかつての部下たちの視線を、背中で受けながら。そこへ瑠璃香のものが混ざっていないのは幸なのか、不幸なのか――。
(瑠璃香……)
話したいのに話せない。
自分の気持ちを置き去りに、どんどん状況が変化していってしまう。
コメント
1件
すれ違いまくり😭