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#夢
凪川 彩絵
一番話したい相手と一言も言葉を交わすこともできないまま。
晴永は再び、最上階へと引き戻されていった――。
***
新沼課長の出社が遅い。
そのことを気にしながら、小笹瑠璃香はパソコンを立ち上げた。社内ネットワークにログインすると同時に、新着通知が出る。それをクリックするなり、瑠璃香は眉根を寄せた。
「え? なに……これ?」
朝から色々漏れ聞こえてくる声で、今日のおかしな状態の渦中の人が、自分の直属の上司……であり婚約者(でいいんだよね?)の新沼晴永のことだというのは何となく分かっていた。
でも――。
いきなり企画宣伝課長から〝社長補佐〟だなんて……意味が分からない。
(晴永さん、何も言わなかった……よ?)
思えばここ数日、晴永の様子が少しおかしかった気もする……。
瑠璃香に何かを伝えたそうにしていた。
なまこの脱走や記念日のことであやふやになってしまっていたけれど、一緒に住んでいるのだ。話す機会なんていくらでもあったはずだ。
(そういえば……)
一緒に作ったはずの結婚指輪も受け取り予定日はとうに過ぎているはずなのに、晴永からは何も言われない。
(……ずっと一緒にいたいって言ってくれたの、嘘だったの?)
画面を見つめたまま、一人悶々と悪い方、悪い方に考えてしまう。
そんな折だった。同期の木嶋悦子と、日下仁人が連れ立って企画宣伝課へ入ってきたのは。
「ちょっといい?」
おはよう、もお疲れさまもなく、唐突に用件から入った悦子に返事をする間もなく腕を引かれ、そのまま人気の少ない非常階段へ連れ出された。
いつもなら日下がそんな悦子のブレーキ役になるのだが、今日に限っては止めるつもりはないらしい。
バタン……と非常口の扉が閉まると同時に、悦子が口を開いた。
「新沼課長……あー、えっと新沼社長補佐になったんだっけ? あれ、どういうことなの?」
どういうことなの? と聞かれても、瑠璃香だって知りたい。
瑠璃香が何も答えずにいると、悦子が
「ひょっとして……企画宣伝課の人も……何も聞かされてないの?」
顔を覗き込むようにされて、眉根を寄せられる。
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
(聞かされて……ない)
悦子や日下は知らないけれど、瑠璃香は今、晴永と同棲している。
確かに今回のは余りにも急で不自然な異動だった。課の人間には言うチャンスがなかったのかもしれないけれど、自分には――?
晴永の朝の様子からすると、何か思うところがあったはずなのだ。なのに、彼は瑠璃香には何も言ってくれなかった。
「小笹……」
低い声音で日下に呼び掛けられて、ハッとする。
社内のざわめきが嘘みたいに、ここは静かだ。でも、瑠璃香の心情を表すように、風だけがやけに強く吹き抜けていく。
何か言わなきゃいけないのに……うまく、言葉が出てこない。
晴永のことも。
今、何が起きているのかも。
本当に――何も分からないのだ。
ただ――。
(……渡せなかった)
ふと、出社してすぐの時のことが浮かぶ。
少し早めに出て彼の机に置いておこうと思っていた、朝食。
いつもならもっと閑散としているはずのフロア内が、今日だけはやけにざわざわして人が多かった……。
結局、晴永の机に近付けないままロッカーへ仕舞って……そのまま――。
ぎゅっと、指先に力が入る。
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