Side 緑
いつの間にか、店内に流れるクラシックの曲が変わっていた。
ジャズじゃないというのが小粋だ。名前はわからないけれど、弦楽四重奏か何かだろうか。
コーヒーも半ば飲んだところだった。時間はあるから、ゆっくりできる。
と、右隣のほうで何かの物音がした。見ると、俺の後から入ってきた男性が背負っていたリュックが、床に落ちている。椅子の背もたれにかけていたんだろう。
しかし、彼は本を読んでいて気づいていない。よほど集中しているらしい。
「……あ、あの…」
俺は勇気を出して声を発した。「か…かばん」
相変わらず単語しか話せない自分に苛立つが、当の男性は姿勢を変えない。イヤホンはしていないのに、なぜだろう。
「……すい、ません」
その拙い発音の声も、どうやら彼には届いていないらしい。
俺は立ち上がって手を伸ばし、肩を小さく叩いた。ぴくりと震わせて、こっちを見る。
落ちたリュックを指さした。彼はそのほうを見、取り上げる。
そして頭を下げ、左手の甲を右手で手刀を切るようにした。
ああ、これ知ってる。手話だ。いつかの記憶が蘇る。
同時に俺はやっとわかった。この人は、耳が聞こえないか聞こえにくいんだろう。
だから、注文のときも指をさしていたんだ。
彼はスマホを取り出し、何かを入力している。
前に向き直り、マグカップを口に近づけようとしたところで右肩をとんとんと叩かれる。
見ると、その男性がスマホの画面を俺に向けている。
『手話わかってくれましたか?』
俺はうなずく。『ありがとうですよね』と返すと、嬉しそうに笑った。また素早く文字を打ち込む。
『もしかして手話できるとかですか?』
その好奇心がのぞく瞳が、わずかに申し訳なく思える。
俺は小さく首を振って、スマホのメモに文を書く。
『練習してたことはあるんですけど、やめちゃって』
それを見た彼は、少し残念そうな顔をした。そしてまた入力し始めたけど、机の上にスマホを置く。俺のほうを見て、耳に手を当ててから俺に向けた。
それでピンと来る。彼は、俺も同じく耳が聞こえないと思ってるのかもしれない。
『僕は喋れないんです』
画面を見せたあと、鞄につけているヘルプマークをちらりとのぞかせる。
彼は目を瞬かせた。
『文字は読めるけど、話せなくて』
すると彼は、両手の親指と小指を立て、小指どうしを交互に当てた。
俺は首を傾げる。こんな手話は知らない。
『似てるって意味です』
書かれた文章を見て、理解した。
彼は声を発さない。俺も言葉を発せない。確かに似たもの同士だ。
スマホに手を伸ばし、何やら入力していく。
『そのブローカー失語ってどんなのですか?』
意外と屈託がないんだな、と思った。俺がことばに詰まっていると、彼は書き直す。
『すいません、初対面なのに嫌ですよね
ごめんなさい』
コーヒーカップを手に取ってすするその横顔を見ると、整っていて綺麗だった。
俺らの“言葉”は誰にも聞かれない。だから、この人になら話せるかな。
『よかったら、聞いてくれますか?』と肩をたたいて示す。
彼はぱっと顔を明るくし、微笑んだ。