Side 青
ふと腕時計に目をやると、店に入ってから小一時間が過ぎていた。
今読んでいる本に夢中になって、傍らの飲み物の存在すら忘れていた。冷めかけているブラックコーヒーを口に含み、またページをめくる。
最近読んでいるミステリー作家の新作だ。本屋に行って、大々的に平積みされていたので買ってしまった。
俺は聴覚の情報が一切ないから、字幕のない映画や音楽はあまり楽しめない。だから、趣味と言えば読書や絵画を見ることだ。もちろん、ろう者と手話でお喋りするのも楽しいけど。
時々コーヒーのマグカップに手をやりながら読み進めていると、突然左肩を誰かに叩かれた。
びっくりして左側を見ると、俺より先にこのカフェに来ていた男性が何やら下を指さしている。
見れば、俺のリュックが床に落ちていた。それを拾い上げ、伝わらないかもと思いながらも手話で「ありがとう」と示す。
正直、いちいちスマホに入力したりするのは面倒くさい。
だけどうなずいたりしてくれないから、不安になって文章にする。
『手話わかってくれましたか?』
彼の肩に触れて、スマホの画面を見せる。耳が聞こえないことを理解したのか、同じようにメモ帳に打ってくれた。
『ありがとうですよね』
それを見て少し嬉しくなった。最近は手話がテーマのドラマなんかも多くなってきたから、知っている人も増えたんだろう。
俺は興味本位で、また訊く。
『もしかして手話できるとかですか?』
すると彼はほんの少し申し訳なさそうな顔をして、首を横に振る。
『練習してたことはあるんですけど、やめちゃって』
それを見て、わずかに肩を落とした。それは残念だ。
俺はメモにリアクションを書こうとして、指を止めた。少し練習していたなら、わかってくれるかもしれない。
耳と口に片手を当てる「ろう」の手話をして、彼を示す。あなたも耳が聞こえないんですか、と伝えたつもりだ。
伝わったのか、彼は親指を素早く画面の上で動かす。
『僕は喋れないんです』
軽く驚いた。とてもそんなふうには思えない。
すると、彼のバッグについている赤いキーホルダーのようなものを俺に見せた。そこには「ブローカー失語」だろうか、そんな文字が書いてある。
『文字は読めるけど、話せなくて』
なるほど、とうなずいた。失語ってそういうことか。
俺は彼に向けて、「似ている」という手話をした。知ってもらいたいという気持ちも込めて。
『似てるって意味です』
首を傾げているから、そう説明した。ああ、と言うように彼は口をわずかに開ける。
それから、気になったことを訊こうと思った。彼のことも知りたい。
『そのブローカー失語ってどんなのですか?』
すると、彼は少し固まった。さすがに踏み込みすぎたかな、と後悔する。
何だか、この人の心は重く濡れていて、外見の明るさとは反対にどこか暗いところがあるんじゃないかと直感的に思った。
だから、弱いそよ風だとしても吹かせて、光で照らしてあげたいな、と。
『すいません、初対面なのに嫌ですよね
ごめんなさい』
気まずくなって、コーヒーを口に含む。まだわずかに温かさは残っていた。
もう少しだけ本を読もうかなと思ったとき、また左肩をとんとんと叩かれる。
振り返ると、彼がスマホを小さく掲げた。
『よかったら、聞いてくれますか?』
俺は嬉しくなって、うなずいた。
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