テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「…………」
白銀の床に。
チャンスは倒れていた。
いや。
正確には、座り込んでいた。
帽子はない。
コインは全部裏。
額にはコブ。
そして。
何より。
やる気がない。
「…………」
チャンスは床を見つめていた。
「……もう帰りたい」
しかし。
ここがどこなのかすら、彼には分からない。
帰る場所があるのかも分からない。
そもそも帰る方法を探すことすら面倒だった。
「……」
その時。
コツ。
コツ。
コツ。
白銀の世界に。
高らかなヒールの音が響いた。
「まあまあ」
どこか楽しげな声。
チャンスが顔だけを上げる。
白銀の光の向こうから。
純白のドレスを纏った女が歩いてくる。
優雅な足取り。
長い髪。
気品に満ちた微笑み。
そして。
その細い指先に。
「…………」
チャンスの目が止まった。
黒いフェドラ帽。
漆黒の艶。
完璧な形。
見間違えるはずがない。
「……俺の帽子」
女は。
SWAPSAKENの主。
アクチュアリティ女王だった。
11,230
#veeronica
ゆ♨️
352
#azure
ゆ♨️
134
「お久しぶりですわね、チャンス様」
女王は微笑みながら、帽子を軽く掲げた。
「ずいぶんと無情な風に愛されていらっしゃるようですわね」
「…………」
チャンスは何も言わない。
「まさか、あれほど綺麗に吹き飛ばされるとは」
「…………」
「ふふ」
女王は楽しそうに笑う。
そして。
「どうかしら?」
帽子を指先でくるりと回した。
「この美しいフェドラ帽を賭けて、私とひと勝負なさらない?」
「…………」
沈黙。
女王は微笑んだまま待つ。
「……」
チャンスは帽子を見た。
限定品。
最高級。
自分が闇市場やオークションを渡り歩いて、莫大な金を払って手に入れた逸品。
普段のチャンスなら。
ここで即答していた。
むしろ。
「全財産を賭けよう」
くらい言っていた。
勝つか。
負けるか。
分からない。
だから面白い。
失うかもしれない。
だからこそ価値がある。
その緊張感。
その不確実性。
その一瞬の興奮。
それこそが、チャンスにとって最高の娯楽だった。
しかし。
今は。
「……断るよ」
「…………まあ」
女王が瞬きをする。
チャンスは床に座ったまま。
「勝負に乗る意味がない」
「まあまあ」
「リスクを背負う価値もない」
「まあ」
「帽子なら」
チャンスは淡々と言った。
「また闇市場で買えばいい」
「……本当に?」
「うん」
「この帽子を?」
「うん」
「あなたが長年かけて手に入れた、最高級の限定品を?」
「うん」
チャンスは帽子を見上げる。
「別に」
そして。
「……なくても困らないし」
「…………」
女王は黙った。
この反応。
つまらない。
あまりにも。
つまらない。
普段なら、この男は目を輝かせて食いつくはずだった。
「賭ける?」
そう聞いただけで。
「何を賭ける?」
と笑うはずだった。
それが。
今は。
「どうでもいい」
である。
女王は小さく肩をすくめた。
「まあ……本当につれないこと」
帽子を指先で弄ぶ。
「せっかく拾って差し上げたというのに」
「ありがとう」
「…………」
「でもいらない」
「…………」
女王の眉がぴくりと動いた。
「……そう」
その時だった。
「――待ちな、女王様」
低い声が響いた。
二人が振り向く。
そこにいたのは。
マフィオソだった。
先ほどまで必死に逃げ回っていた男とは思えないほど、堂々と立っている。
肩は絶好調。
身体も軽い。
額には先ほどチャンスのコインを受けた跡がある。
だが。
本人は気にしていなかった。
マフィオソは縦縞の入ったフェドラ帽の庇を指先で押し上げた。
「チャンスが乗らないなら」
黒いコートの内側へ手を入れる。
「俺が相手になろう」
チャリン。
金属音。
取り出されたのは。
金色の懐中時計だった。
重厚なケース。
精巧な装飾。
そして。
美しい金色の鎖。
マフィオソはそれを手のひらに乗せる。
その表情には。
先ほどまでの恐怖とは違う。
裏社会の首領としての誇りがあった。
「俺が勝てば」
マフィオソは女王を見る。
「そのフェドラ帽をもらう」
女王の口元が上がった。
「ほう?」
「……あんたが勝てば」
マフィオソは懐中時計を掲げる。
「俺の、この金時計を渡そうじゃないか」
チャンスがちらりと見る。
「…………」
「何だ」
「いや」
チャンスは少しだけ首を傾げた。
「それ、大事な物なんじゃないの?」
マフィオソの表情が変わった。
「……ああ」
懐中時計を握る。
「俺の命の次に大事な品だ」
「じゃあ賭けないほうがいいんじゃない?」
「……」
マフィオソは固まった。
「お前……」
「何?」
「さっきまでなら『最高だ!』とか言ってただろうが」
「さっきまでの俺じゃないからね」
「…………」
マフィオソは頭を抱えたくなった。
本当に別人になっている。
「まあいい」
マフィオソは女王へ向き直る。
「この時計を賭ける」
女王は。
しばらく懐中時計を眺めた。
そして。
「ふふ」
笑った。
「素晴らしいですわ」
白銀の空間が。
わずかに歪む。
シュンッ。
次の瞬間。
二人の間に。
白銀のテーブルが現れた。
その上には。
二つの椅子。
そして。
勝負のための道具が。
整然と並べられていく。
「落ちぶれたサバイバー様が」
女王は優雅に椅子へ腰掛ける。
「ご自慢の骨董品を賭けて、この私に挑む」
向かい側。
マフィオソも腰を下ろす。
「最高のお戯れですわね」
「戯れじゃない」
マフィオソは真剣だった。
「俺は本気だ」
「まあ」
女王は楽しそうに目を細める。
「その意気込み、とても素敵ですわ」
マフィオソは懐中時計をテーブルの中央へ置いた。
コトン。
金色の時計が。
白銀のテーブルの上で静かに輝く。
その向かい側。
女王はチャンスのフェドラ帽を置いた。
黒。
白。
金。
二つの品が向かい合う。
「では」
女王が微笑む。
「始めましょうか」
マフィオソは息を整える。
「……ああ」
こうして。
白銀の世界で。
突然のオークションが始まった。
……ただし。
「…………」
その横で。
チャンスは床に座っていた。
「…………」
二人の勝負を眺めている。
「…………」
五秒。
十秒。
二十秒。
そして。
「……」
欠伸。
「…………」
女王とマフィオソが睨み合う。
チャンスはそれを見ながら。
「……眠い」
ぽつり。
「…………」
マフィオソが振り向いた。
「お前も少しは興味を持て!!」
「ない」
即答だった。
「…………」
マフィオソは無言で前を向き直った。
女王は。
「ふふ」
楽しそうに笑っていた。
こうして。
白銀の世界では。
SWAPSAKENの女王。
ソネリーノファミリーの首領。
そして。
何もかもに興味を失った元・幸運のギャンブラー。
三人の妙な温度差を抱えた。
奇妙な勝負が。
静かに始まった。