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カチャン。
カチャン、カチャン。
白銀のテーブルの上で、カードが一枚ずつ配られていく。
その乾いた音だけが、やけに鮮明にチャンスの耳へ届いていた。
「さあ、次の勝負よ」
アクチュアリティ女王の楽しげな声。
「……この程度の勝負、俺が負けるはずがない」
マフィオソの低い声。
二人は目の前のカードに意識を集中させ、互いの出方を探っている。
そのすぐ横で。
チャンスは、まるで世界から切り離された人間のように、ゆっくりと身体を起こした。
「……っ」
さすがに先ほどの不運の連続は堪えた。
コインは額に直撃。
帽子は吹き飛ぶ。
平らな床では盛大に転倒。
落としたコインは一枚残らず裏。
そして何より。
自分の人生そのものだった「幸運」が、今や徹底的に裏切っている。
チャンスはふらつきながら壁まで歩くと、そのまま背中を預けた。
ズルッ。
身体が壁を滑り落ちる。
そして、床に座り込む。
「……」
もう怒る気力すらなかった。
いつもの彼なら、ここで笑っていた。
最悪の状況ほど面白い。
死ぬかもしれないほど危険な賭けほど興奮する。
予測不能だからこそ、生きている実感がある。
それがチャンスという男だった。
人生の目標。
それは、単純だった。
どんなに高価でも。
どんなに危険でも。
どんなに馬鹿げていても。
世界が提供するすべての経験を、限界まで味わい尽くす。
安全な場所に閉じこもって、ただ長生きするだけなんて御免だった。
だから。
彼は両親の手を振り払った。
豪華な屋敷を飛び出した。
与えられた安全な人生を捨てた。
カジノを手に入れ。
危険な勝負に身を投じ。
命を賭け。
金を賭け。
時には自分自身の命すらチップにして。
サバイバーとして。
あるいはキラーとして。
幾度となく死線を潜り抜けてきた。
それが。
「俺の人生だった」
チャンスは小さく呟いた。
「……はずなんだけどな」
カードが配られる音がする。
カチャン。
カチャン。
その音を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが軋んだ。
「……ああ」
チャンスの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「覚えてるよ」
その声には、いつもの軽薄さがなかった。
「この感覚だ」
幼い頃。
まだ彼が、世界の広さを知らなかった頃。
巨大な屋敷の中。
磨き上げられた大理石の床。
高価な家具。
広すぎる部屋。
何人もの使用人。
欲しいものは、頼めば何でも手に入った。
食事は一流。
服も一流。
教育も一流。
住環境も一流。
何ひとつ不自由はなかった。
外から見れば。
完璧な人生だった。
ただし。
ひとつだけ問題があった。
「危ないから駄目よ」
「それは怪我をする」
「そんな場所へ行ってはいけない」
「その人間とは付き合わないほうがいい」
「そんな遊びは危険だ」
「もっと安全なものにしなさい」
「君のためなんだ」
両親は、チャンスを愛していた。
少なくとも。
本人たちはそう信じていた。
だからこそ。
彼の行動を監視した。
危険を排除した。
失敗する可能性を潰した。
怪我をする可能性を潰した。
騙される可能性を潰した。
傷つく可能性を潰した。
死ぬ可能性を。
徹底的に潰した。
「安全な人生こそ、幸せなのよ」
母親はそう言った。
「何も心配する必要はない」
父親もそう言った。
そしてチャンスは。
その言葉を聞くたびに、胸の奥が息苦しくなった。
なぜなら。
そこには「生きろ」という意味だけではなく。
「何もするな」
という意味が含まれていたからだ。
窓から外を見る。
広い庭。
高い塀。
その向こうにある世界。
同年代の子供たちが走り回っている。
泥だらけになっている。
転んでいる。
喧嘩している。
笑っている。
泣いている。
失敗している。
それでも。
生きている。
一方。
チャンスは屋敷の中にいた。
怪我をしない。
失敗しない。
失望しない。
裏切られない。
危険もない。
死ぬこともない。
完璧だった。
完璧すぎた。
「……地獄だった」
現在のチャンスの口から、ぽつりと声が漏れる。
壁に背を預けたまま、彼は天井を見上げた。
「何も起こらない」
「……」
「何も起こらないんだ」
その言葉が、白銀の空間へ静かに落ちていく。
「毎日が同じだった」
「安全で」
「快適で」
「退屈だった」
チャンスは目を閉じる。
そして。
遠い昔の自分が、脳裏に浮かんだ。
屋敷の中で。
窓の外を眺めながら。
ただ世界に憧れていた少年。
危険な場所へ行きたかった。
知らない人間と出会いたかった。
失敗してみたかった。
騙されてみたかった。
負けてみたかった。
死ぬほど怖い思いをして。
それでも。
「生きてる」と笑いたかった。
だから。
逃げた。
親のもとから。
安全な箱庭から。
そして。
ようやく手に入れたと思っていた。
自由を。
「……なのに」
チャンスはゆっくりと目を開いた。
目の前に広がるのは、白銀の世界。
どこまでも美しく。
どこまでも清潔で。
どこにも危険がない。
そして。
どこにも刺激がない。
「……また、ここかよ」
チャンスの視線が、アクチュアリティ女王とマフィオソへ向く。
二人はまだ勝負を続けている。
「このカード……なるほど」
「どうした? 女王」
「ふふっ。秘密よ」
「……」
楽しそうな女王。
真剣なマフィオソ。
その光景を。
チャンスはただ眺めていた。
かつてなら。
あのテーブルへ飛び込んでいた。
「俺も混ぜろ」
そう言って。
何が賭けられているのか確認し。
どれほど危険なのかを確認し。
そして。
全部賭けた。
それがチャンスだった。
なのに。
今は。
何も感じない。
勝ちたいとも思わない。
負けたいとも思わない。
金も。
命も。
名誉も。
カードも。
帽子も。
どうでもいい。
「……結局」
チャンスは小さく笑った。
笑ったというより。
口元がわずかに動いただけだった。
「どこへ行っても、俺はここから出られないのか」
白銀の壁を見る。
白銀の床。
白銀の天井。
白銀のテーブル。
白銀のカード。
そして。
白銀の世界。
美しい。
完璧。
安全。
何も傷つかない。
何も失わない。
何も起こらない。
「……昔と同じだ」
その瞬間。
チャンスには、この世界が別のものに見えた。
さっきまで広大に見えていたSWAPSAKEN。
その景色が。
巨大な檻に変わる。
白銀の壁は。
檻の格子。
美しい装飾は。
鍵のない扉。
どこまでも続く空間は。
実はどこへも行けない、巨大な籠。
「……安全な箱庭」
幼い頃。
両親が自分を閉じ込めていた箱庭。
そこから逃げ出したはずだった。
なのに。
今。
また同じ場所に戻されている。
「……世界が提供する刺激なんて」
チャンスの瞳から、光が少しずつ消えていく。
「最初から、どこにもなかったんだ」
カチャン。
カードが一枚、テーブルに置かれた。
その音が。
妙に大きく響いた。
「……」
チャンスは目を伏せた。
胸の奥にあったものが。
少しずつ。
少しずつ。
冷えていく。
怒りではない。
悲しみでもない。
憎しみですらない。
もっと厄介なものだった。
諦め。
「どうせ何をしても同じだ」
そんな考えが。
静かに。
しかし確実に。
彼の中へ染み込んでいく。
かつて自由を求めて飛び出した男は。
今。
自分から籠の隅に座り込んでいた。
そして白銀の世界は。
そんな彼を。
何も言わず。
ただ美しく照らしていた。