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藤井の家で泣いてしまった翌日。
土曜日で仕事はお休み。自分の恋心が消化できずに仕事に支障をきたすなんて、ダメだなと反省しながら一日を過ごした。
それでも家では「元気なお母さん」として普段出来ない大物の洗濯にやっつけ、バタバタと時間が過ぎていく。
時計を見ると、そろそろ美幸の塾の時間だ。
今日は塾の荷物の他にもう一つ荷物がある。
先日のお泊りに味をしめた美幸は、また、お泊りに行くと約束をして来てしまったのだ。
気さくな陽菜ちゃんママは「いいのよ。ウチだって来てくれた方が大人しくなって助かるんだから」と朗らかに笑ってくれる。いつもお世話になってばかりで、申し訳ないような気持ちになりながら甘えさせてもらう事にした。
「陽菜ちゃんママの言う事よく聞いて、迷惑にならないようにね」
「そんなのわかってるよ。ちゃんと勉強もするし、陽菜ちゃんとお手伝いもするもん」
沙羅に口うるさく言われた美幸は頬を膨らませた。
「美幸が泊まりに行ってばかりじゃ悪いから、今度は、陽菜ちゃんにウチに来てって伝えてね」
ふくれっ面だった美幸は、途端にぱぁっと顔を輝かせる。
「えっ、陽菜ちゃんをお泊りに呼んでいいの?」
「もちろんよ。だって、美幸のお家でしょう」
その言葉にニカッと満面の笑みを浮かべた美幸は、手を突き上げながら大きなジャンプをした。
「やったあ。じゃあ、いってきます」
大はしゃぎで塾の入っているビルへと駆け込んで行く美幸に、沙羅は手を振った。
塾の帰りにそのまま、陽菜ちゃんママが家に連れて帰ってくれる手はずだ。
「夜、ひとりか……」
何も用事のないひとりきりの夜なんて、久しぶり過ぎて何をして過ごしたらいいのかわからない。
鬱々と会えない人の事を考えてしまいそうだ。
スマホのメッセージアプリを立ち上げ、日下部真理の名前をタップした。
そして、ポチポチとメッセージを入力する。
『夜、空いていたら食事でもどうかな?』
◇
何度か来た事がある居酒屋「峡」だが、昼間の時間と違い、店内の照明が落とされ、ざわざわと大勢の人の気配がした。
沙羅は、待ち合わせであることを店員に告げると、半個室になっているテーブルに通される。
そこには、いつも遅刻気味の真理がめずらしく先に来ていた。
「真理、急に食事に誘ってごめんね」
声を掛けると真理はパッとスマホをから顔を上げ、慌ててスマホをバッグに仕舞いながら沙羅へ返事をする。
「いいって、予定も無かったんだから誘ってくれてうれしいわ。お料理、適当に頼んであるわよ。ナニ飲む?」
何気ない仕草で真理は気を反らせるように、沙羅へとメニューを差し出す。
腰を下ろした沙羅は、何にしようかなっと小首をかしげながらメニューを広げた。
「うーん。食事も楽しみたいからなぁ。梅酒割りにしようかな」
「じゃあ、店員さん呼ぶわね。すみませーん。梅酒割りひとつと生中ひとつ」
注文して直ぐに、お通しの白和えとお酒が運ばれて来きた。
真理は、上機嫌でビールの入ったジョッキを持ち上げる。
「それじゃ、沙羅の就職にカンパーイ」
「あはは、ありがとう。カンパーイ」
軽くグラスを合わせると、真理はゴクゴクとビールを喉に流し込む。
その飲みっぷりは、その辺のサラリーマンに負けないぐらい小気味いい。
「ぷはぁー。仕事の後のビールの美味しさったら、サイコー!」
「ホント、美味しそうに飲むわね」
「ふふっ、美味しいもの。で、話し変わるけど仕事始めてみてどう?」
真理は好奇心いっぱいの瞳を向ける。
「真理には良い会社を紹介してもらって、感謝してもしきれないわ。それに、田辺社長がいろいろ配慮してくれるおかげで順調よ」
「そう、良かった。紹介した甲斐があったわ」
「ところで、真理は田辺社長とどんな関係で知り合いなの?」
何気ない沙羅の問いかけに、真理はゴフッとビールをむせ、おしぼりを口元に当てながら視線を泳がせる。
「えっ、あっ、友だちの友だち? って、感じかなっ!」
誰がどう見ても挙動不審だ。
沙羅はジト目で真理をにらむが、そのタイミングで注文していた料理が運ばれてくる。
テーブルの上には、ホッケの開きや焼き鳥の盛り合わせ、サラダ、から揚げなどの定番居酒屋メニューがところ狭しと並んだ。
上手く誤魔化せたと真理は思ったが、沙羅はジト目のままだ。
焦る真理は口走る。
「だ、男性関係は深堀りしないの!」
真理は、おしぼりを口に当てたまま、沙羅の様子をチラリと伺う。
「わかった。これ以上聞かないわ」
真理と田辺の繋がりがどんな物であろうとも、良い職場なのは事実だ。
真理の挙動不審は気になるが、沙羅はこれ以上追求しない事にした。
「すみませーん。生中ひとつと、梅酒割りひとつお願いします」
話題をすり替えように追加のビールを注文した真理は、テーブルの上に身を乗り出し、声をひそめる。
「ねえ、離婚した後も別れた夫と暮らしているの?」
「ううん、半年は娘のために一緒に居るつもりだったけど、やっぱり無理だったの。考えが甘かったのよねぇ。なんだか夫に対して嫌悪感が強くなってしまって……。それに娘の所にも不倫相手が嫌がらせに行ってしまって、娘が夫に嫌悪感を強く持ってしまったのが、一緒に暮せない理由として大きかったかな」
「えっ⁉ なに、酷い。子供の所に不倫相手が現れたの?」
「そう、自分が父親の恋人で新しいママになるとか、わざわざ自己紹介をしたらしいの」
それを聞いた真理は目を見開き憤慨する。
「信じられない。バカじゃないの⁉」
「だから、不倫相手には娘を傷つけた分の制裁は与えたつもり」
「えっ、ナニナニ⁉ それ、くわしく」
真理は、ワイドショーを見るように興味津々だ。
「地方に住んでいる親を呼びつけて、彼女のパパ活を暴露したの。焦った親御さんが多額の慰謝料を確約してくれたわ。それで慰謝料の振り込みを確認してから、他のパパ活相手だった2件の家に匿名で調査報告書を発送したの」
「で、その後は?」
「後は、弁護士さんから聞いた話しだけど、パパ活相手の奥さんから新たに慰謝料を請求されて、大変らしいの。そうよねー。私の慰謝料と合わせたら3件分トータルで一本に届いたみたい」
「うわっ、一生物のえげつない金額だ」
「調査報告書を受け取った奥さんは、ご主人の不倫は毎度の事だからと離婚しないまま慰謝料だけ請求して、そのお金で優雅に海外旅行に行ったって聞いたわ」
「離婚しないでも不倫の慰謝料は請求できるものね。その上で、夫の不倫を許す許さないを決めればいいんだし、奥さんたちは、知らないままより良かったんじゃない」
沙羅は視線を下に落とし、手元のおしぼりを畳んだり広げたりしながら、言い辛そうに話し出す。。
「あのね……。不倫相手のお腹の赤ちゃんが、話し合いの時に腰を打ち付けたせいで、流れてしまって……。そこまで望んでいなかったのに、それだけが苦く残っている」
「うーん。お腹の子供に罪はないから、複雑な気持ちになるのはわかるよ。でも、沙羅が暴力ふるった訳じゃないんでしょう」
「私じゃないけど、不倫相手の父親が激昂して」
「じゃあ、不倫相手の自業自得よ。それに何股もかけるような貞操観念のゆるい不倫女が、良い母親になれるとは思わないのよね。DVとは言わないけど、自分だけ着飾って男と出かけて、子供をネグレクトしたりしそう。だから、お腹の子がこの母親の元に産まれたくないって、旅立って行ったのかもよ」
「そうかな……」
「うん、きっと優しい母親を見つけて、今度は大丈夫だって思えるところに宿ると思う」
「そうだといいな……」
「きっと、そうだよ」
お腹の子供に罪は無いのに、片桐を追い立ててしまったせいで、あのような事になったように感じ、ずっと気が重かった。
真理に強く言われ、なんだか救われたような気持になる。
「ありがとう。真理」
「やだ、急に恥ずかしい。ほら、飲んで飲んで」
真理が、湿っぽさを吹き飛ばすように、ちょうど運ばれてきたお酒を受け取り、沙羅へと手渡す。
「まあ、沙羅は苦労したんだから、この先は良い事が待っているわよ。例えば素敵な彼氏が出来るとかね」
「そんなことないよ。私、恋愛とか、もう無理だと思う」
そう言って、沙羅は寂しそうに微笑んだ。
まさか、そんな事を言われるとは思っていなかった真理は、驚きのあまりに声が大きくなる。
「女性の平均寿命は、87歳! わたしたちには、後50年以上あるのよ。今からそんな寂しい事言ってどうするの。幸せになりたければ無理とか言わないで、自分で掴みに行かなければ、いつまで経っても幸せになれないのよ!」
真理が言いたい事はわかる。けれど、沙羅の胸には、昨日銀座で見た慶太とその横に居た女性の姿が影を落としていた。
「でも……」と、うつむく沙羅に、真理は焦れる。
「もう! 下ばっかり向いていないで、この後、もう一軒行くわよ!」
真理にタクシーに乗せられ、引きずられるように沙羅が連れて来られたのは、六本木のBar Somma。
カウンターや棚に漆塗りが施され、光沢のある朱色の店内は和テイストで、洗練された大人だけの空間だ。
流れている曲はボサノヴァの名曲Chega De Saudade。ジョアン・ジルベルトが、離ればなれになった恋人への溢れる想いを甘い声で歌っていた。
「素敵なお店ね」
素直な沙羅の感想に真理は得意気に胸を張る。
「でしょう。ここは日本酒の取り扱いも多くて、雰囲気が落ち着いて居心地が良いの」
「私、本格的なBarって初めてかも」
大学を出てから直ぐに結婚した沙羅は、夜の街で飲み歩く事はなかった。Barなんて、テレビドラマで見るだけの世界だ。
「新しい場所に行けば、新しい出会いもあるのよ。独身に戻ったのだから、娘さんがお泊りに行っている日ぐらい、羽を伸ばしてもバチは当たらないわ」
「うーん。母親なのにいいのかなって考えちゃう」
「”子供のために”って、自分を縛って視野を狭くしたら返って、子供のためにならないと思う。息抜きをすることで、子供にも余裕を持って接する事が出来るはずよ」
真理は、カウンターに座りバーテンダーにカクテルを注文する。
出て来たのは、日本酒をベースにライムの香りも爽やかなサムライというカクテルとイチゴをふんだんに使ったサケリーニャだ。
目の前に置かれたグラスの華やかさに沙羅は、目を輝かせる。
「わあ、イチゴのカクテルなんてあるのね」
「うん、見た目も可愛いでしょう。こんなに素敵なお酒に出会えるなら、たまに息抜きをしてもいいんじゃない? それにこういう場所で意外な人と出会ったりして……」
と、真理は意味深につぶやいて、沙羅の背中越しに視線を向ける。
「久しぶり」
低めの艶のある声が、沙羅の後ろから聞こえた。
まさか、っという思いで振り返る。
そこには、会いたいと願っていても、もう会えないと思っていた慶太の姿があった。
無理をして心に蓋をしていた気持ちが溢れ、言葉が出てこない。
涙で慶太が歪んで見える。
真理は、立ちすくむ沙羅の背中を押した。
「悔いの無いように生きなくちゃダメよ。人生は長いけど、旬の時期は短いんだから」
しかし、沙羅は口を引き結んだまま、動けない。
慶太を目の前にして何をすればいいのだろう。
慶太には、綺麗な婚約者が居るのに……。
「沙羅」
慶太に名前を呼ばれ、顔を上げた。
切れ長の瞳に切なげに見つめられ、心が震える。
「慶太……」
もう一度だけなら夢を見てもいいのだろうか。
慶太に触れてもいいのだろうか。
沙羅は、そっと慶太の袖口を掴み、押さえ込んでいた気持ちを吐露する。
「私、会いたかった……ずっと慶太に会いたかった」
「ん、俺も沙羅に会いたかった。今日、会えて良かった」
見つめ合うふたりの間を割って入るように、真理が声を上げた。
「はいはい、ふたりで積もる話しもあるでしょうから、どっかに行って頂戴。わたしはもう一杯飲んでいくから」
真理は、乾杯でもするようにグラスを掲げ、残っていたカクテルを一気に飲み干し、ニヤリと笑う。
「日下部、悪いな」
「高良のツケだからね。高くつくわよ!」
「恩に着るよ」
「沙羅、また飲もうね」
そう言って、真理は送り出すように、もう一度沙羅の背中を押した。
背中を押された沙羅は慶太とふたり、夜の街へと歩き出した。