コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ビゼがショーダリー委員長との面会予約をしたその日のうちに、三人が泊まっていた宿の前に迎えの馬車が来た。わずかな光を受けて微妙に色合いを変える葦毛馬が二頭、金の梟の装飾が施された四輪の箱馬車を引いてやってきた。
ユカリはこのような馬車に乗るのは初めてのことだったので、少しの冒険心を浮き立たせて足取り軽やかに乗り込んだ。悠々とはいかないが、パディアも乗れる大きな馬車だ。天井は少し低いようだったが。
御者は鋭い眼差しにきっちりとした振る舞いの老齢の男だった。
「素敵な馬車ですね。よろしくお願いします」と作法など分からなかったので、自分自身が言いたくなった言葉をユカリは御者に伝えたが、御者は軽く頷くだけだった。
馬車は風のように駆け抜けて、迷うことなく曲がりくねったワーズメーズの石の轍を縫っていく。御者は既にこの街の道を把握しているということだ。
馬車の外の景色は目まぐるしく変化していく。行き交う通行人はまだ街に不慣れな様子だった。この街はいまだかつてない混乱に陥っている。道に迷うだけならまだ些細なものだ。
ユカリの聞いた噂によると、大量の屍が発見されたり、何か巨大な怪物でも潜んでいたらしき巣穴が発見されたりしたそうだ。迷いの呪いに封じ込められていたのだろうそれらをユカリが解放したということになる。
そしてこの街はもう笑顔も笑い声も些細な喜びも必要としていなかった。必要としていないからといってなくなるわけではないが。
まるで長い年月を陽光に曝されたかのように、街は色褪せて見えた。箱馬車の外の憂鬱な景色からユカリは目をそらす。
そうして魔導書を使ってもいないのに、瞬く間にワーズメーズの中心地にある運営委員会委員長の公邸へとユカリたちは到着した。
堅牢に積み上げられた石壁は一見染み一つないが、その目地に二重三重の魔術が差し込まれている。二人の若い衛兵が陣取る公邸唯一の門にはさらに多くの呪いが待機している。門扉には猛り狂う雷や逆巻き荒れる嵐を兄弟とする古い呪文が彫り刻まれ、門柱には聖人の秘密を盗み見た蛇や冬至の朝日を浴びた鼠の力ある血が染み込んでいる。
石壁の塀の裏には緑の濃い胡椒木の林があり、林を抜けるとネドマリア邸が三つは入りそうな庭に出る。いくつかの建物があり、整えられた生垣で仕切られている。そこに繁茂する水草まで透けて見える池には赤青紫の蓮の花が浮かび、艶やかな鰭をはためかせる池魚が舞うように泳いでいる。池に浮かぶ苔の生えた岩には人間にはあまり知られていない小さい者が潜んでおり、池に湧き立つ霊気を心行くまで浴びていた。傍に建てられた白大理石の四阿に人影があったが、ユカリが気が付いたのは柱の陰に隠れてしまう直前だった。
館もまた白大理石で造られていて、屋根はユカリの見たことがない群青の金属で葺かれている。館の玄関へと続く道の両脇にはいくつもの魔法使いの彫像が並んでいて、その衣装は皆違うが一様に色鮮やかに塗られている。玄関の両脇には隠れたる夢幻公の姉妹像が向かい合わせに立っていたが、これは大理石の肌を露わにしていた。
「偶像なんて珍しいね」とビゼが呟いたのを聞いて、ユカリは尋ねる。
「魔法使いは信仰を持たないものなんですか?」
「いや、そういう訳じゃないよ。むしろ信仰に篤い者の方が多いんじゃないかな。ただ魔法使いは修行や研究の妨げになるとして偶像崇拝を避ける傾向にあるね」
偶像崇拝と修行や研究の妨げがどう繋がるのかユカリには分からなかったが、新たな質問は御者の案内に封じられた。
「ご案内、ありがとうございます」とユカリは【声をかけた】が、御者は頷くだけだった。
「どういたしまして」と二頭の馬が嬉しそうに嘶いた。
玄関の前には髪を引っ詰めた女性が一人待っていた。召使か、でなければ秘書のようで、御者同様にきっちりとした佇まいで三人を迎える。
「ビゼ様。パディア様。歓迎いたします。ショーダリー閣下は執務室にてお待ちです。ご案内いたします」
ユカリは呆然と立ち尽くす。唐突に場違いな存在になった気がして、どうすればいいのか分からずにいるとパディアが優しく手を引いてくれた。少なくとも案内の女性はそれを非難することはなかったので、少し怖気づきながらもユカリは歩を進めた。
ビゼが耳打ちをする。「すまないね。ユカリさん。ショーダリーという男はこういう奴なんだ。子供嫌いという訳じゃないんだけど。大人と子供は対等ではないと考えている。まさか秘書にまで徹底させているとは思ってもみなかったけど」
だとすればあの御者も無愛想な性格だったわけじゃないのか、とユカリは得心してしまった。
そんな彼らの主人が自分の話を聞いてくれるのだろうか、とユカリは不安になる。ただでさえ、無茶なお願いをするのに。
案内されるままに廊下を行く。天井は深い穹窿をなし、壁は朱と黄土色に塗られている。等間隔に壁龕が並び、そこにも小さな彫像が据えられていた。人に鳥獣、樹木の彫像もあった。どれもが生き生きと塗られていて、中には本物と見紛う見事な像もあった。ユカリは一つ一つ時間をかけてじっくりと見たくて仕方がなかったが、とても言い出せる雰囲気ではなかったので出来る限りじっくり見た。
いくつかの角を曲がって、ある一室の扉を案内人が叩くと、中から招く声が聞こえた。三人は招きに応じて部屋に入る。
部屋の中央にどっしりと据えられた大きな樫の机で男が何か書き物をしている。
「掛けたまえ」とこちらをちらと見もせずに言って、目の前の長椅子に促す。「すぐ終わる。少し待ってくれ」
執務室は一転、調度品の限られた素朴な部屋だった。両隣の部屋へ続く扉。分厚い書物の並ぶ書棚。一対の長椅子に挟まれて、背の低い黒檀の円卓が置かれている。毛足の短い絨毯は模様も色合いも地味で、何か呪いが仕込まれていることもない。
ただ、執務机の向こうにある大きな窓は大きな硝子に閉ざされ、その向こうの驚異に満ちた景色を映し出している。二等辺三角形に刈り整えられたパディアの身の丈ほどの生垣が中心に鎮座し、その周囲を古代の英雄たちの彫像が躍動している。するとあの生け垣は、かの霊峰神々の故郷を模しているのだと分かる。最も勇ましき英雄は山の如き馬に跨り、巨木の如き槍を携え、無数の翼が鱗のように体を覆う怪物に立ち向かっている。彫像たちの表情は勇ましいだけではない。地に這い、恐れおののく者や許しを請う者、背を向けて逃げ出す者もいる。鯨波の声、蹄が大地を踏み鳴らす音、銅鑼の音、剣のかち合う音が今にも聞こえてきそうだ。天を割って勝利の女神が現れ、弦と鍵盤の音色と共に英雄に祝福を与えることだろう。そして英雄は導きのままに地上を離れ、永遠に讃えられる。ユカリはその一部始終に身を震わせた。この庭は古の戦場を模して造園されているのだった。後景に聳える街の塔群は投石機か砦のようにも見えてくる。
呆けたユカリをパディアが引っ張り、三人はユカリを挟んで一方の長椅子に腰かけた。しばらくしてショーダリーも仕事を離れると、机を挟んで三人は挨拶を交わす。
「こうして再会できて嬉しいよ、ショーダリー」と言ってビゼが差し出した手をショーダリーが掴むようにして握手した。「出立の際は多くの世話を受けたね。その恩を忘れてはいないよ」
ショーダリーは豪快に笑って答える。「気にするな。それに、ことはそう単純じゃないぞ。ワーズメーズは一応ミーチオン都市群に属する都市国家ということになっているからな。都市法に同盟規定、盟主都市丘の主との力関係。魔法使いたちの心情、魔導書に対する懸念、多分に政治的ないざこざがあったのだよ。そしてさらに正直に言うならば魔導書が手に入ることはない、という委員会の判断に基づく支援だったのさ」
「まあ、そうだろうね。それでも受けた恩は本物だよ。ショーダリー、こちらは僕の弟子のパディアと恩人のユカリだ」
「お会いできて光栄です、ショーダリー閣下」
「おお。お噂はかねがね」そう言ってショーダリーの出した手がパディアの差し出した手に包まれるように握手した。「勇に厚く、才に豊か、魔法を行使する様は雪風にも屈さぬ冬薔薇の如しと。かの女傑レブニオンに勝るとも劣らない勇士だとお聞きしている」
「お上手ですこと。私など閣下や師に比肩するもおこがましい魔法使い見習いのようなものです」
ショーダリーは噂に違わぬ鍛えられた肉体を誇示している。太い手足に骨ばった手、顔つき、いかにも戦士然とした姿は長衣に覆われてなお露わになっている。鎧でも中に着こんでいるのかと思われかねない。
「初めまして、ショーダリー閣下。ユカリと申します。お会いできて光栄です」そう言ってユカリは手を伸ばす。
ショーダリーはユカリの手に少し触れて「うん」と言ったきり離してしまった。
四人は円卓を挟んで、再び長椅子に座る。
ユカリは憮然たる面持ちを抑え込む。