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もしも助けられていたら?
「……起きたの? 若井」
カーテンの隙間から差し込むのは、あの日の冷たい朝焼けではなく、穏やかな春の陽光。
ベッドの中で目を覚ました若井の視界に、エプロン姿でキッチンに立つ元貴の背中が映る。
あの日、廃屋に踏み込んだ涼架は、泣きながら二人を抱きかかえ、救急車を呼んだ。
胃洗浄の苦しみと、警察の取り調べ。
若井は会社を解雇され、世間からは「元天才歌手を誘拐した狂った男」として指名手配寸前の扱いを受けた。
けれど、病院のベッドで元貴が放った一言が、すべてを覆した。
「——僕が、連れて行ってほしいと頼んだんです。
彼は、僕を救ってくれたんです」
それから数年。
二人は名前を変え、以前住んでいた街からも、涼架の監視の目からも離れた、誰も知らない古いアパートの一室にいた。
今度の部屋番号は、303号室。
「若井、またぼーっとしてる。
……コーヒー、冷めちゃうよ」
元貴がテーブルにカップを置く。
かつてのような騒がしさも、闇もない。
地毛の黒髪を無造作に分けた彼は、どこにでもいる「少し綺麗な青年」として、若井の隣で笑っている。
「……ごめん。……幸せすぎて、時々怖くなるんだ。……あの時、本当に死んでたんじゃないかって」
若井が元貴の腰を引き寄せ、その細い指に自分の指
を絡める。
若井は今、小さな配送会社の事務員として働いている。
かつてのエリート街道からは大きく外れたけれど、定時に帰宅し、元貴の作る夕飯を待つ毎日は、何物にも代えがたい「救い」だった。
「……死んでたら、このコーヒーの苦さも、
若井の指の温かさも分からなかったでしょ」
元貴は、若井の膝の上にちょこんと座り、
耳元で悪戯っぽく囁いた。
「……ねえ、……また歌ってもいいかな」
若井の身体が、一瞬ビクッと強張る。
「……世間のために? それとも、涼架のために?」
「ううん。……この部屋の、壁に向けて。
……君だけに聞こえるくらいの、小さな声で」
元貴は、若井の首筋に顔を埋める。
そこには、あの日二人の命を繋ぎ止めようとした、あの銀色の鍵が——今はもう鍵としての役目を終え、ただの思い出として棚に飾られている。
若井は、元貴の背中を優しく、包み込むように
撫でた。
「……いいよ。
……お前の声は、もう一生、俺が守るから」
外では、子供たちが走る声や、日常の喧騒が聞こえる。
もう、誰も彼らを追いかけない。
誰も彼らを「天才」や「犯罪者」とは呼ばない。
二人は、世界から忘れ去られた場所で、お互いという名の「監獄」に自ら入り、幸福な終身刑を全うする。
朝食のトーストが焼ける香りと、元貴の鼻歌。
それだけで、若井の人生は、あの日以上の「永遠」を手に入れたのだ。
「……愛してるよ、元貴」
「……知ってる。
……僕を、誰にも返さないでね、若井」
303号室の扉は、今、優しく閉じられている。
内側から、しっかりと、愛という名の鍵をかけて。
コメント
6件
時差コメ失礼します…!! ほんとに最高すぎてコメントしちゃいました…🫣バドエンもハピエンも両方最高で…主様のストーリー性や2人の関係性などどれも含めて最高すぎました🫠💕 ほんまこういう物語大好きです🫶
最高すぎます泣! このお話ずっと追ってて、 完結おめでとうございます! 大森さんと若井さんの不器用な愛というか、ほんとに最高でした!ありがとうございました! 既に5週ほどしています笑
ハッピーエンドもバッドエンドも素敵なのはなぜ???
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