先に休憩に出ていた小春が売り場へと戻って来た後、睦美は自分の休憩バッグを引っ掴んで階段を駆け上がった。二階のレディースフロアは一足早く冬物のセールを開催しているテナントに客の多くが集中しているみたいだったが、一番奥まったところにあるフォーマル売り場は相変わらず黒々としていて、店内放送が静かに流れていた。
「お疲れ様です、柿崎さんは……?」
売り場を見回してみても香苗の姿はなく、今日は休みだったのかと愕然とする。イベント以外では一緒に行動することがなかったから、互いのシフトはいまいち把握していない。
「チーフなら、多分バックヤードで作業してると思うわよ」
通路に出て隣の売り場のスタッフとお喋りしていた年配のパートさんが、売り場の隅にある小部屋を指差して教えてくれる。試着室と並んでいる『スタッフオンリー』のプレートが張られたドアの向こうは、在庫や備品、什器類を保管するスペース。遠慮がちにノックして、中から返事が戻ってくるのを待っていると、ガチャリと扉が開いて香苗自身が顔を見せた。
「あ、むっちゃん、お疲れ様」
「お疲れ様。もしかして、休憩はまだだったりする? ちょっと伝えたいことが……」
「ううん、いつでも行けるけど。え、何かあったの?」
「それが、その……」
香苗の後ろに他のスタッフの姿を見つけ、睦美が言いにくそうにしていると、香苗は「ちょっと待ってて」と奥に戻って壁面の棚の上に置いていた自分の休憩バッグを取ってくる。そして、スタッフへ向けて「休憩いただきます」と声を掛けてから、ドアの前で固まっていた睦美の背を押した。
「何があったかは、多分だけど分かったかも。とりあえず食堂に行こ」
オロオロして必要なことが何も言えなくなっている睦美とは反対に、香苗はとても冷静だった。食堂について睦美が定食を注文している間に、あまり人が座っていないテーブルを選んで場所取りして静かに待っていてくれた。
睦美はテーブルへ着くと、まずは給茶機から汲んできたばかりのお茶を一気に飲んだ。動揺していたせいか、喉が異常に乾いていた。普段なら「いただきます」とお箸に手を伸ばすところだが、今日はそれどころじゃない。
「佐山さんが――奥さんの方の佐山さんが、こないだのステージを動画に撮ってたらしくて。で、ピアノ弾いてるのが私だってこと気付いたって、朝から旦那の方の佐山さんが売り場に来て……」
どっちも佐山さん呼びだったから、正直ややこしかったけれど、睦美のその説明を香苗は小さく頷き返しながら黙って聞いていた。
「うん、うちの売り場にも朝から佐山チーフが用も無いのに前をうろついてた。多分、歌ってるのが私か確かめに来たんだと思う」
「あー、メイク変えてるとリンリンって分かり辛いもんね。で、何か言われたの?」
「ううん、『お疲れ様です。どうかされました?』って声掛けたら、『別に何も』って言って逃げてった」
「へ? 逃げてった?」
役職は同じなのに、やたら上から目線な態度を崩さない佐山が、自分の売り場とは一切関わりのない二階フロアを徘徊した上に、慌てて逃げ去る姿というのはいまいち想像できない。不思議がる睦美へと、香苗が不機嫌な口調でその理由を説明し始める。
「あの人、奥さんと結婚する前はうちの売り場に居た、矢代さんってパートさんと付き合ってたの。私より二つ年上で、すごく静かな人」
付き合い始めまでは聞いてないけれど、結構長い付き合いだったみたいだと、香苗は苛立ちを隠しきれない口調で言う。
「他のパートさん達からも結婚間近かもって言われてたんだけど、今の奥さんとも同時に付き合い始めてたらしくて」
「え、二股ってこと? え、あの顔で⁉︎ え、嘘でしょう……」
二股っていうのはモテるタイプがするものだと思い込んでいた。まさかあのゲジ眉がという衝撃に、睦美は目をぱちくりさせる。
「嘘みたいな話だけど、本当。本人は奥さんの方から誘われたとか言ってたみたいだけど、その辺りはよくわかんないかな。でも、矢代さんがその二股に気付いて話し合った時に、あの男は『三十過ぎた女より、あっちの方がいい』って矢代さんと別れることにしたんだよ。長年付き合った挙句に、三十路過ぎたからっていう理由で」
その後、そのパートさんは店を辞めてしまったのだと、香苗は怒りに満ちた目で「若い方がいいってのは個人の趣向として理解するけど、本人を目の前にして平気で言うような男なのよ、あいつは」と吐き捨てるように言った。彼女が佐山チーフのことを毛嫌いする理由がようやく分かって納得した。と同時に、話を聞いただけなのに睦美まで無性に腹立たしくて仕方ない気分に襲われた。
「でも、今朝の佐山さんの様子だと、あの時の動画をいろんなとこに見せびらかしてバカにしてきそうだよ」
もしかしたら既に、同じ売り場のスタッフには見せ終わった後かもしれない。睦美とは違い、十年以上をこの店舗で勤めている彼なら知り合いも多いはずだ。いろんなところで拡散されてしまったら、この店に居辛くなってしまわないだろうか。
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