「ごめん、佐山さんに気付かれたのは、私のせいだ……」
睦美が一緒にいなければ、香苗はリンリンお姉さんとしての活動をずっと誰にもバレることなく続けていられたのかもしれない。香苗一人なら、きっと気付かれることはなかった。睦美が髪型とメイクを変えてもそれほど変わり映えしないから、簡単に見抜かれてしまったのが原因だ。そんな思いから謝罪を口にした睦美へ、香苗は「ハァ⁉︎」という呆れた声を出した。
「違うよ。今まで誰にもバレなかったのは、本当にたまたま。近くで活動してたら、当然知り合いにも会うだろうなってことぐらいは私だって覚悟してるよ」
「でも……」
「待って。もしかして、バレたから辞めるとか考えてた⁉︎」
驚き顔で聞いてくる香苗を、睦美も同じようにビックリした目で見返す。
「だって、リンリン、前に私に他の人には言わないでって――」
睦美が初めてステージを観てリンリンお姉さんが香苗だということに気付いてしまった後、確かに「あまり公にはしたくない」と口止めをされた覚えがある。それはつまり、周りには内緒にしていて欲しいということで……
頭の中が混乱しそうになる睦美に、香苗は優しい年上の顔で微笑んでみせる。
「あれはね、必要以上に言いふらされるのは困るなって話なだけ。バレたら辞めるとか、そんなことは考えてないよ。そもそも、会社に申請してる時点で、完全に内緒の活動ってわけじゃないし」
「確かに、そうだね」
「ほとんどボランティア活動で、別に悪いことをしてるわけでもないもの。そりゃあ、素人のくせに人前で歌ってとか、そういう風に非難されたら言い返せないかもだけど」
そんな話をしていたら、複数の男性が大きな声で喋りながら食堂に入ってきたのに気付いた。ランチタイムにはとっくに遅いこの時間から来るのは、仕事を抜け出しての休憩だろうか。自販機で飲み物を買った後、席には付かずにそのまま立ち話を続けているところを見ると、おそらくはサボりの線だ。
その一団の中に佐山の姿を見つけて、睦美は反射的に下を向いて視線を逸らした。
「……むっちゃん?」
睦美のその反応に気付いたらしく、香苗はちらりと後ろを振り返った後、ハァっと大きな溜め息を吐く。そして、何も言わずにいつも通り「いただきます」と言って手を合わせてからお弁当の蓋を開けていた。
食堂の入口付近から聞こえてくる、何だか嫌な笑い声。からかいを含んだクスクス笑い。それらは明らかにこちらへと向けられていて、睦美は顔を上げることができなかった。香苗と同じように「いただきます」と言ったものの、お箸がなかなか進まない。
黙々と会話もせずに食べ続ける昼食。ミニ海鮮丼とうどんのセットはいつもに比べたら豪華なメニューだったが、とっくに冷めてしまったうどんを一本ずつ啜るのが精一杯だった。
――リンリンが言うように、別に悪いことしてるわけじゃないのは分かってる。でも……
朝に佐山から言われたことには何一つとして言い返せなかった。それはつまり、自分はどこかで後ろめたさを感じていたからだ。大して上手くないピアノを演奏して、似合いもしないフリフリした衣装にツインテール。どちらも母が見たら卒倒しているだろう。
お箸を持ったまま固まってしまった睦美のことを、向かいの席から香苗が心配そうな顔で声を掛けてくる。
「……もしかして、もう辞めたいって思ってる?」
普段聞くよりも少し低めの声。それにはとても寂しい響きを感じて、睦美はハッと顔を上げた。いつの間にか自販機の前には誰もいなくなっていて、離れたテーブルで学生バイトらしき女の子がスマホを片手で操作しながら、菓子パンを頬張っているのが視界に入った。
「辞めたいとは、思ってない。でも、辞めた方がいいんじゃないかって……」
ここでの仕事がやり辛くなるのは正直言って困る。でも、ピアノのお姉さんとしての活動が嫌になったわけじゃない。だけど、ピアノを弾いて生活ができるわけじゃないから、どちらを諦めなきゃいけないのかは明白だ。だから今、睦美は悔しくて仕方ない思いに苛まれていた。
ユニットを解消することで香苗との関係が変わる可能性があることも寂しかった。この歳になって出来た大切な友人。二人で子供達の笑顔を引き出すことができた時、この上ない達成感を覚えていたのに。この充実した時間が、ずっと続くと思っていたのに……
佐山の嘲笑を思い出して、睦美は下唇をぎゅっと噛みしめた。恥ずかしさと悔しさ、どちらが優勢かは分からないけれど、今はどうすることもできない。
そんな睦美のことを、香苗は黙ってじっと見つめている。そこまで長い付き合いではないけれど、睦美が今感じている気持ちを必死で汲み取ろうとしてくれているのかもしれない。
しばらく黙り込んでいた香苗が、お箸を置いて「ごちそうさまでした」と呟いた後に思い立ったように告げた。
「どうせ隠せないんだったら、逆に堂々とやってやろうよ」
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