パジオは新カードロアの砦から飛び出すわけでもなく、徒に砦を破壊し、情け容赦なく人々を傷つけている。
ユカリたちにはその意図がまるで分からない。もはや心まで怪物になってしまったのかもしれない。
地上へと降下しながらユカリはソラマリアに尋ねる。「魔法少女の【憑依】の魔法については話しましたっけ?」
「ああ、概ね。吐息を吹きかければ生物を支配できるのだろう?」
「ちょっと肉体を借りるだけです。ただし、私の本体は眠りにつき、私が目を覚ませば【憑依】は解けてしまいます」
「繊細なんだな。しかしならば地上に降りなくてはな。そして私が守りに徹し……いや、待てよ。吐息の射程はどうなるんだ?」
「問題はそこなんです。グリュエーがいれば目に見える範囲、地平線まで吐息を運んでもらえるんですけど、今は私の肺活量次第……あ! いえ、一つ思いつきました。【噴出】する空気に【憑依】の吐息を混ぜれば射程は伸ばせるかもしれません、たぶん。グリュエーみたいに標的を追いかけることはできませんが」
「息を吐いた時点で意識を失うのではないのか?」
「いえ、私が意識を失うのは【憑依】が成功した時点です。なので、作戦を立てるとすれば――」
「杖では飛べなくなる以上、私がユカリを負ぶって追いかける他ないな」そして少し可笑しそうに笑って言う。「結局こうなったな」
残留呪帯のために立てたおんぶ作戦は却下されたがユカリの思わぬところで再浮上した。
地上へ降りるとユカリは杖の辺りに【息を吹きかけ】つつ、【咀嚼】する。思いのほか難しいが何とか【憑依】の魔法を杖に充填すると、ソラマリアの背に乗る。
元々傷だらけの新カードロア砦はパジオによってずたずたに引き裂かれ、憐れな群衆の血に塗れていた。まるで瀕死で横たわりながら分解の進む巨大な石の獣だ。
魂を凍えさせる大人の悲鳴と胸を引き裂く子供の泣き声が砦の街を満たしている。最早逃げるのを諦め、天の采配を待って額づいている者や恐怖のあまりに気が触れたのか笑い転げる者もいた。ある意味では古の戦場よりも猖獗を極める光景だ。戦う意志のない者が無残に無慈悲に命を奪われている。
ジニは砦のどこかで人々を治療しているだろう。しかしとても間に合わない。手に負えない。早く止めなくてはならない。
ソラマリアは風のように疾走し、波のように跳躍する。瓦礫を掻き集めて形を成していたが瓦礫に再帰しつつある砦を駆け抜け、跳び越える。
先ほどまでは高々と跳ねまわっていたパジオが姿を見せない。あちらも地上を走って逃げ回っているようだ。人々も恐怖に心が押し潰され、パジオがどちらに逃げたかユカリたちに教える気力も残っていなかった。ただしより大きな悲鳴の聞こえる方にパジオがいるのは間違いないだろう、とユカリとソラマリアは五感と霊感を総動員する。ユカリは杖を構え、不意の遭遇に備える。
神殿へと続く大通りだった場所を走っていたその時、途切れがちになった特別大きな悲鳴、今まさに切り裂かれた者の断末魔が聞こえ、ソラマリアは穴熊を追う猟犬の如き俊敏さで裏路地へと飛び込む。
路地の奥にいたパジオにユカリは杖を向け、支配の風を噴出した。が、途端にユカリの意識は路地の端でへたれこんで震える女の中に現れた。すぐそばをソラマリアが駆け抜ける。狙いが外れたのだ。ユカリはすぐに魂を自身の体へと戻す。
「すみません。思いのほか射程が短いです。たぶん空気中に拡散してしまって、吐息が放射状に広がってしまうんだと思います。直接吹きかけるよりはましという程度だと思ってください。それと進行方向に向けるとソラマリアさんに憑依してしまう可能性があるので、回り込むように接近してください」
今までグリュエーという風は少しも漏らさずユカリの吐息を包み込み、標的に届けてくれていたのだとユカリは初めて知った。
「分かった。しっかりつかまっていろ」
平地でさえ毛長馬ユビスを越える速度で走るソラマリアから逃れられる者などいないだろう。パジオは刃を射出する勢いを利用して疾走しているが、とても逃げきれないと悟ったようだった。代わりに刃の狙いをユカリたちに定める。しかしソラマリアは己が剣を抜くこともなく飛来する凶刃を易々とかわし、待ち構えて剣を振るうパジオのそばを難なく通り抜ける。
ユカリの魂が刃の奥のパジオの肉体に、悪い風の運ぶ疫病の如く断りなく静かに忍び込む。
瞬間、ユカリは奇妙な感覚に包まれる。否、奇妙な感覚と一体化するという表現に近い。その体は確かに骨と肉に支えられたパジオの体でありながら、無数の刃そのもののようにも感じられた。生物に憑依する魔法少女の魔法の成功自体が不思議に思えるくらい、その感覚は無機物的だった。
一方で知っている感覚もある。それは魔法少女への、あるいはクヴラフワで手に入れた魔導書の変身に似た感覚だ。ユカリの他には誰も感じ取れないらしい魔導書の気配に包まれる感覚だ。
「ユカリ? ユカリなのか? 大丈夫か?」とソラマリアに声をかけられてユカリはパジオの体で振り返る。
意識を失ったユカリを背負うソラマリアが毫も警戒を緩めずにこちらを窺っている。
感覚はともかく、支配できているのは確かだと分かる。
「私です。ユカリです」ユカリはパジオの体で害意がないことを示すように膝を折る。「特に問題はありません。それにこの変身を解けそうな感覚があります」
「それなら良かった。脅すにしても、その刃の奥の首を跳ね飛ばせるか怪しいところだからな」
「賭けでしたけど、上手くいって良かったです」ユカリは体の感覚を探り探り話す。「だけど、ちょっと違いますね。いつもの変身解除が日焼けの薄皮を剥くようなものだとしたら生皮を剥いでいるような感覚です」
ソラマリアは眉根を寄せてユカリを窺っている。「生皮を剥いだことがあるのか?」
「狩りを生業にしていましたから。あ、いけそう。変身解けそうです」
次の瞬間、腹の奥の方で何かが弾けたかと思うと、ユカリは咄嗟に何をする暇も与えられず、パジオの体が爆発飛散した。微塵も反応できずに急激に力が膨張し、熱と圧が体外へ奔出し、無数の刃が全方向へと弾け飛んだ。
ソラマリアは瞬時に氷の壁を作り出し、魔導書を触媒とした氷でさえ放たれた熱と刃に溶かし削られたが、さらなる氷を追加し続けて己とユカリの身を守った。もっとも、そばにいたソラマリアは無事だったが、それはソラマリアだったからに過ぎない。熾烈な熱と激烈な圧と苛烈な刃によって瓦礫の砦は半壊した。
そしてユカリは、ユカリの意識はその光景を呆然と見ていた。自分を中心に地面は削られ、人々は吹き飛び、悲鳴までもが掻き消され、何もかもが音を立てて崩れていく。瓦礫は塵の如く圧壊し、砦を控えめに飾っていた布切れは灰となって消え失せた。
一時押しのけられた空気が爆心地へと戻ってきた時、ユカリは気づく。憑依していた肉体を失ってなおユカリはそこにいた。すぐそばには剣や槍の突き刺さった氷の塊があり、その向こうにはソラマリアがいて、ユカリをしっかりと背負っている。しかしユカリの魂は変わらずパジオがいた場所で立ち竦んでいる。
何が起きているのか分からない。こういう経験は今までになかった。実感がわくにつれ、自身の置かれた状況が説明できないことだらけだと気づく。五感が全て見えない膜に覆われたかのような感覚に陥る。辺りを認識しているが、辺りが遠ざかっているようにも感じる。壁を見ながら、その裏側も見ている。皮膚と骨と肉と臓腑を同時に見ている。今と昔とずっと昔を同時に見、しかし未來は見えない。
今ここにいるという現実が、今ここにいるということを意味していない。
死を想起する。つまりこれは、そういうことなのか、とユカリは問う。しかし問いかけられたようにも思えた。誰もが知らず、しかし誰もがいずれ知ることとなる、知りたくはない答え。
「大丈夫か? ユカリ」とソラマリアの声が聞こえる。威厳に満ちていながら幼子のように少し不安定な声だ。
ソラマリアを見る。自分はずっとソラマリアを見ていたのか、それともそちらに目を向けたのか。それすらも分からない。
ユカリは目を開く。ここにいるのに。ソラマリアに背負われたユカリが目を覚ます。目を覚まし、そしてユカリはユカリを見つめ、見つめられ、にやりと笑みを歪めた。