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『杏子……杏子……』
『落ち着いてください』
『杏子……』
『…………ですから』
『しかし……』
鷹也……?
鷹也の声が聞こえる。
私、どうしたんだろう。
体が重い。目を開けたいのにどうして開かないのだろう。
ここ、寒い。今日はすっごく暑かったのにな。
最近やたらと眠かったし、もう少し寝ようかな――――。
◇ ◇ ◇
「杏子!」
「………………鷹也?」
「気づいたのか⁉」
「私……?」
「病院だ」
「病院……」
ハッ! そうだ。私、エスカレーターに乗ろうとしたら後ろから――。
「赤ちゃん……赤ちゃんは⁉」
ガバッと起き上がる私を鷹也が制する。
「突然起き上がるな」
「あ……」
頭がクラクラする。
とてもじゃないが体を起こして立ち上がるなんて無理だ。
「た、鷹也……赤ちゃんは?」
「赤ん坊は大丈夫だ。だから落ち着け」
「本当に? 無事なの?」
「ああ。出血はしていないし、エコーの画面を見ても大丈夫だってさっき先生が」
「良かった……」
プルルル……
鷹也がナースコールを押した。
『どうされましたか?』
「妻が目覚めました」
『すぐ行きます』
それから私は主治医の診察を受けた。
幸いなことに、胎児には問題ないとはっきり告げられ、私は心底ホッとした。
良かった!
でも、どちらかというと私の貧血の方が問題らしい。
結局、大事をとって1日入院することになった。
「ひなは知美さんが預かってくれている。今日は和久井の実家にお泊まりだな」
「うん……」
ひなと離れるなんて初めてだな。大丈夫かな……。
自分の体よりどうしてもひなが気になる。
「……何があったのか覚えているか?」
「エスカレーターに乗ろうとしたら、後ろに人がいて、すごく距離が近いなと思ったら……突然声がして……ドンって……」
「……杏子が乗ろうとしていたエスカレーターには、男性ドクター二人が乗っていたらしい。たぶん杏子と距離がそんなに離れていなかったのだと思う。その二人が突き飛ばされた杏子を受け止めてくれたんだ」
「受け止めて……」
「ああ。もしその二人がいなかったら、おそらく杏子は下まで落ちていた」
「……」
受け止めてもらわなかったら、今頃赤ちゃんは……。
ゾッとした。
「そのドクター二人の話では、杏子はどこもぶつけなかったそうだ。気を失ってしまったのはショックもあるだろうけれど、先生がさっき言っていたように貧血が原因だ」
「そう……」
そういえば、貧血が酷いから薬を飲むようにって言われたところだったわ。
「薬、ちゃんと飲まなきゃね」
「杏子」
突然、鷹也がガバッと抱きついてきた。
「無事で良かった……」
「……うん」
夏だと言うのに、震えるほどの寒さだったのが嘘のように鷹也の温もりで溶かされていく。
ホッとする……。
「赤ちゃん……出来たんだな」
「……うん」
「言えよ。言ってくれれば休みを取って付き添ったのに。そうすればこんなことには――」
「ごめん……びっくりさせたかったの」
「びっくりした。こんなことがあって違う意味でもな。でも嬉しいよ。これからは俺が傍にいて杏子と赤ん坊を守るから」
「鷹也……」
「犯人は捕まった」
「犯人……? あっ!」
そうだ。あの時、男の人が「光希!」って叫んで……。
「……光希さん?」
「ああ。その場で取り押さえられて、現行犯逮捕。今は警察だ」
「どうしてあそこに? 外国にいるんじゃなかったの?」
「すまない……。イギリスにいると聞いていたんだが、帰国していたそうだ」
私が突き飛ばされたショックで気を失っている間に、いろんなことが起きたらしい。
光希さんは2ヶ月前にイギリスから帰国していた。
森勢との約束で日本に居られなくなった光希さんは、語学留学という名目でイギリスに居たが、そこでは大人しくしていたらしい。
そして、同じくイギリスに語学留学していた年下の日本人男性の子供を妊娠し、結婚したそうだ。
そこまでは良かったのだが、結婚してすぐ流産してしまった。
そこから光希さんは少しずつおかしくなっていった。
幸いなことに、旦那さんは優しくて、ずっと光希さんに寄り添ってくれる人だったらしく、光希さんはまた妊娠する。
ところがその子も妊娠発覚から数日後にまた流れてしまう。
精神的にもかなり落ち込んでいた光希さんを心配したご両親が、光希さんとその旦那さんを日本に呼び寄せた。
今後の妊活のことも考え、たまたま今日、検査を受けるため大学病院に来ていたという。
「産婦人科の前で杏子を見つけてしまったんだ。しかも、杏子の名前が森勢杏子に変わっていて、二人目を妊娠していると知ってしまう」
「あ……。看護師さんが追いかけてきたときに話を聞いていたのね」
大学病院は整理券の番号でしか呼ばれない。本来なら名前はわからないはずだ。
「自分は二度も流産しているのに、杏子は俺の子を妊娠している。しかも二人目だ。かっとなって衝動的に突き飛ばしてしまったと。とんでもないよな」
とんでもない。突き飛ばされたことは許せない。
エスカレーターで受け止めてくれる人がいなかったら、私もきっとこの子を失っていた。
それどころじゃなく、私の命も危なかったかもしれない。
「さっき、ここに黒島の旦那が謝りに来ていた。この話はその旦那から聞いたんだ。旦那はまともだった。けど謝りに来たからといって許されることじゃない。俺へのストーカー行為だけでも多大な被害を被っていたのに、今回のことはストーカー行為とは比べものにならない犯罪だ。杏子とお腹の子の命がかかっていたんだぞ。俺は許すことなんて出来ない。告訴することにした。もう弁護士に話はしてある」
「そう……」
だったら私にはもう何もすることはない。衝動的であったとしても、さすがにこれは許されることじゃない。ちゃんと法の裁きを受けてもらわないと困る。
私だけのことであれば、そこまで思わなかったかもしれない。現状、大した怪我もなかったのだから。
でも子供のこととなれば話は別だ。ここでちゃんと対応しないと、この先ずっと光希さんの影に怯えて暮らすことになるだろう。
彼女の身に起こったことは悲しい出来事だったと思う。今後は罪を悔い改めて、彼女の人生にも幸せな未来が待っていることを願うばかりだ。
そこへ引き戸が開いて――。