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春の朝、ガラス張りの高層ホテルは、陽射しを反射してきらめいていた。
桜坂華は、その正面玄関の前で立ち尽くしていた。桜坂財閥の令嬢として、何不自由なく育ってきた彼女にとって、今日が初めての“社会人”としての一日だった。
(……ついに社会人デビュー。私にだってきっとできるはず)
胸の奥が少しだけ高鳴る。けれど、手にした名刺入れを逆さに持っていることには気づいていない。慣れないヒールに足元はおぼつかず、通りすがる社員たちがひそやかに視線を送る。
「――桜坂さん、ですか?」
背後から低い声がかかった。振り返ると、真面目そうな青年が立っていた。黒髪はきちんと整えられているが、スーツの袖口は少し擦り切れている。
「はい。桜坂華と申します。本日から研修でお世話になります」
慌てて頭を下げると、青年は一瞬だけ目を細め、すぐに名乗った。
「藤井律です。今日からあなたの教育係を任されました」
大学に通いながら数々のアルバイトを掛け持ちし、ようやく正社員となったばかりの律。任された教育係は、彼にとっても初めての大きな責任だった。
「律さん、ですね。どうぞ……ご指導よろしくお願いいたします」
緊張で声が震えるのを感じながら、華は必死に笑みを作る。
(教育係……想像以上に厳しそうな人。大丈夫かな、私……)