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それを知ったとき、響子はうれしかった。これで照彦は、ようやく自分だけのものになったのだ。そして、行彦も。
自分の考えが、世間的には普通でないことは承知している。だが、今も照彦のことを思わない日はないし、行彦のことも、我が子のように愛している。
誰に迷惑をかけるわけでもない。いや、いつも自分を大切にしてくれている芙紗子には迷惑をかけてしまうが、それでも、今、自分が一番欲しいのは、行彦だ。
自分の欲しいものが、すぐ目の前に差し出されているというのに、それを手に入れていけないはずがない。
行彦のことは、自分の子供として育てたい。それで、今後、志保は行彦には会わないという条件のもとに、正式に養子縁組をした。
行彦は、とても聡明な子だった。初めは、照彦の子供である行彦を手元に置きたいと思ったのだったが、いつしか照彦のことは忘れ、自分の息子として、ただ行彦を愛するようになった。
行彦さえいれば、それでいい。一生、行彦の母親として、彼のそばで生きて行くのだ。
行彦は、自分に対する天からの贈り物だ……。
放課後、伸は、この町にたった一つあるホテルにやって来た。今、洋館の持ち主である女性が滞在しているということを、クラスの女子たちの噂話を耳にして知ったのだ。
どういう事情があるのか知らないが、持ち主は、行彦の母とは別にいるらしい。
くわしいことはわからない。行彦に何を聞いても、ただ泣きじゃくるばかりで要領を得ないのだ。
わかっているのは、洋館が取り壊されれば、行彦は、簡単には会えないような遠方に引っ越さなければならないらしいということだけだ。
伸だって、出来ることならば行彦と離れたくない。だが、洋館や行彦たちを取り巻く状況が今一つわからないので、それならば、直接、持ち主に聞いてみようと思ったのだった。
だが、勢いにまかせて来てみたものの、出だしから、つまずいた。
「あの……」
フロントマンに声をかけたものの、後の言葉が続かない。そもそも伸は、女性の顔どころか、名前さえ知らないのだ。
「いかがなさいましたか?」
銀縁の眼鏡をかけたフロントマンが、柔らかな笑顔を浮かべて、伸の顔を見る。
「えぇと、あの、町の再開発の件で滞在されている、洋館の持ち主の……」
「はぁ。お約束ですか?」
名前を言ってくれないかと思うが、個人情報の保護のためか、それ以上、彼は何も言わない。
「いえ……」
やはり無謀だったかとあきらめかけたとき、フロントマンが、伸の背後に目をやった。そして、手で示しながら言う。
「あちらに」
振り向くと、エレベーターのドアが開いて、中年女性が出て来たところだ。個人情報は教えられないが、自分自身でなんとかするなら、かまわないということか。
伸は、フロントマンにぺこりと頭を下げると、女性に駆け寄りながら声をかけた。
「すいません」
短めの髪を栗色に染めた、都会的な雰囲気の女性は、振り向くと、かすかに笑みを浮かべながら、問いかけるように伸の顔を見た。
「あの、安藤伸といいます」
「安藤伸くん? 私に何かご用?」
はきはきとしたしゃべり方と笑顔に助けられ、伸は言葉を続ける。
「山の洋館の持ち主の方ですよね。今度、取り壊される予定の」
「えぇ、そうよ」
「そのことで、お話が……」
突然、不躾に話しかけた見知らぬ高校生に、笑顔で丁寧に接してくれるだけでもありがたいが、さらに彼女は言った。
「今、ティールームにコーヒーを飲みに行くところなの。よかったら付き合ってくださる?
そこでお話しましょう」
「はい」
席に着くと、さっとボーイがやって来た。女性が、伸に向かって言う。
「あなたもコーヒーでいい?」
「はい」
「ほかにも何か頼んだら? ご馳走するわよ」
「いえ。コーヒーだけで」
最近は、なぜかあまりお腹が空かなくて、食事も残しがちなのだ。
「遠慮しなくていいのよ」
「いえ。本当に」
「そう?」
女性は、少しの間、伸を見つめてから、ボーイを見上げて言った。
「それじゃ、コーヒー二つ」
ボーイが立ち去ると、女性が言った。
「私は立花芳子よ。それで、安藤くん、お話って何?」
「えぇと……」
立花は、相変わらず笑みを浮かべて、伸の顔を見ている。
「俺、洋館に住んでいる行彦くんと友達で」
立花が、なぜか眉をひそめたが、かまわず続ける。
「行彦くんは、洋館を離れることを悲しんでいるみたいだし、人が住んでいるのに、どうして取り壊してしまうのかなって。もちろん、再開発のことは知っているけど」
不安になるくらい長い間、伸の顔を見つめた後、立花が言った。
「安藤くん、何か勘違いしているんじゃない? あの洋館は、もう何年も前から空き家になっているわよ」
なんだ、そんなことか。伸は、顎を上げて言う。
「みんなが、そう思っているのは知っています。とてもひっそり暮らしているから、誰も気づかないんですよね。
だから、電気が点いていると、幽霊が出るだなんて言って騒いで。俺も、行彦くんのお母さんには、まだ会ったことがないし」