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そのとき、ボーイがコーヒーを運んで来た。ボーイが去った後、コーヒーには手をつけずに、立花が口を開く。
「行彦くんのお母さんって、響子さんのことかしら」
「名前は知らないけど」
立花が、諭すように話す。
「あのね、私、響子さんとは、はとこなの。つまり、親同士がいとこ。
まぁ、そんなことはいいんだけれど、響子さんなら、もう何年も前に亡くなっているわよ。それに、行彦くんは、もっと前に」
「……えっ?」
「痛ましい出来事だったわ」
伸は、立花の顔を凝視する。言っている意味がわからない。行彦が、なんだって?
――安藤くん、どうしたの? 大丈夫?
立花の声が、やけに遠く聞こえる。
――君、具合が悪いの?
視界がぼやける。
――ちょっと、誰か!
ぼやけた景色が、ゆっくりと傾いて行く……。
長い夢を見ていた。
いつものパジャマ姿で立ち尽くす行彦が、ぽろぽろと涙を流している。行彦。そんなに泣いて、かわいそうに。今、涙を拭いてあげるから。
泣き顔すら、とても美しく、その頬に触れようと、伸は手を伸ばすが、触れる寸前、行彦は後ずさる。
どうして? 問いかける伸に、行彦は黙って首を横に振る。後から後から涙はあふれ出し、赤い唇がわななく。
行彦、どうして? 行彦は、さらに後ずさる。待って、行彦!
体のだるさと息苦しさを感じて目を覚ますと、伸は、見慣れない部屋に横たわっていた。
ここは? ぼんやりと見回すと、壁際に座っていた誰かが近づいて来た。
「伸!」
泣きそうな顔で叫んだのは、母だ。母は、畳みかけるように言う。
「いったいどうしたっていうの? なんであんなところに。お母さんが、どれだけ心配したと思ってるの!」
そんなに一度に言われても、答えられない。それよりも。
「ここ、どこ?」
呆れたように、伸の顔を見つめながら、母が言った。
「病院よ。あなた、ホテルで倒れて、救急車で運ばれたのよ。突然、病院から電話がかかって来て、驚いたわ」
「お店は?」
「そのときいたお客さんに事情を離して、臨時休業にしたわよ」
「ごめん……」
母がため息をついた。
「そんなことはいいわよ。それより、なんであの人、立花さんに会いに行ったりしたの?
駄目じゃない、ご迷惑かけて。あなた、とても痩せているし、顔色がよくないから、最初から心配だったっておっしゃっていたらしいわ」
痩せているし、顔色が悪い? 自分では、そんなふうに思っていなかったが。
この頃、あまり食欲はないけれど、体は、いたって元気なつもりだった。ただ、今はとても疲れているし、ひどく体が重い。
「お母さんだって、ずっと心配していたのよ。ご飯も食べられないほど何を悩んでいるのかと思ったけど、伸、何も話してくれないから」
「悩んでなんてないよ」
行彦と出会ってから、ずっと、とても幸せだった。ただ、洋館を取り壊すことに納得がいかないだけだ。
母が言う。
「お医者様は、おそらく疲労と栄養失調だと思うけれど、どこかに疾患があるかもしれないから、念のために精密検査をするって。
そのために、何日か入院してもらうから、手続きをしてくださいって」
「え?」
それは困る。今夜だって、行彦に会いに行くつもりなのに。
「俺は元気だよ。入院なんて必要ない」
「いい加減にしなさい!」
突然、母が大きな声を上げたので、驚いて、伸は、びくりと身を縮めた。
「あなた、自分の姿を鏡に映してよく見てみなさい。これ以上、勝手なことは許さないわよ。
お母さんの言うことが聞けないなら、今すぐ親子の縁を切るから、どこへでも行きなさい!」
そう言うなり、母は、顔を覆って泣き出した。
初めて母の涙を見た。小さい頃からずっと、母に心配をかけまいと思って、辛いことにも耐えて生きて来たのに、今になって、とんでもなく心配をかけてしまっている。
「ごめん……」
小さな声で謝った伸に、母は涙をぬぐいながら言った。
「お願いだから、入院して、ちゃんと検査を受けてちょうだい。お母さん、伸にもしものことがあったら、どうしていいか……」
「わかった」
母は、入院手続きをしたり、伸の食事の世話を焼いたりして、面会時間が終了するぎりぎりまで病室にいて、明日の朝、必要なものを持って、また来ると言って帰って行った。
行彦のことが、とても気になったが、母と約束をしたし、そうでなくても、体がふらついて力が入らず、とても洋館まで行けそうにない。今まで元気だったのが嘘のように、壁につかまりながら、病室のすぐ外にあるトイレに行くのが精いっぱいだ。
せめて連絡だけでもしたいと思ったが、行彦の電話番号もメールアドレスも知らない。毎晩、会いに行っていたから、連絡する必要を感じたことがなかったのだ。
きっと行彦は、心配していることだろう。いつまで待っても来ない伸のことを思って、一人ぼっちで泣いているかもしれない。
行彦、ごめん。行彦、会いたい……。