月は遠い遠い所にある。地面から見上げようが、今の様に屋根の上から眺めようが届きようが無い。それでもどちらにしろ明るくうつくしく、人々を照らしている。月も照らされている側ではあるが。イチは今晩の宿の屋根の上に腰を下ろして、月を見上げていた。町の住民達も、師も友人達も寝静まっている深夜の事。ふ、と目が覚めて、窓から見える月が綺麗で、だから近くで見たくなった。たん、とん、と軽々と屋根の上に登って、数秒、数分、数十分。夜空を照らしている月はどこか青白く、そのいろは、ああ、あれを思い出すのだと気が付いて。しゃん、と、音が鳴る。
振り向くと、そこには月光を身に纏った様な男が居た。相変わらず真っ白い男だとイチは思う。あと動き辛そうだとも。反世界の魔法は一歩ずつ足を進めてくる。イチの隣に立って、じ、と見下ろされた。イチも立ち上がってただ見つめ返す。腰の短剣に手を添えてはいるが、抜くつもりは無い。まだ。目の前の魔法から殺意は感じないからだ。反世界は瞬きを一つして口を開いた。
「何をしている」
「こっちの台詞だな。俺は月を見ていただけだが、お前は何をしに来たんだ」
「何も。ただ、お前の姿が見えたから」
「見えたから、なんだ」
「知らん」
「なんだそれは。……この町を襲うつもりは無いんだな?」
反世界は答えなかったが、そのつもりならばイチに話しかけるより先に結界でこの町を覆い、変滅させているだろう。かと言って安心する訳では無いが。
しばらく、沈黙が流れる。互いの顔を見つめ合って、先に目を逸らしたのは反世界だった。さっきまでイチがしていた様に月を見上げている。十秒見上げて、不可解だという様な表情でまたイチを見た。
「お前は何故あれを見上げていた」
「……何故と言われても。綺麗だったから、としか」
「人間は意味の無い事をするのが好きだな」
「お前は何も感じないのか? 綺麗とか、そうでないとか」
「ああ」
「そうか」
まぁ、目の前の魔法はそういう存在なのだろうけれど。ただ何処かに現れて滅びを与えて去って行く魔法。いつしか世界を滅ぼすとされているもの。イチが狩りたいと、焦がれている相手。
「なぁ」
反世界は、なんだ、と言う様にイチを見る。
「お前は、いつかこの世界を滅ぼすと言われているんだろう。勿論俺はそれを止めるつもりだしお前を狩るつもりだが。……滅ぼした後は、どうするんだ?」
「……後?」
「ああ。世界の何もかもを変滅させて、それが終わったら。お前はどうするつもりなんだ。死ぬつもりなのか? それとも、たった一人で居るのか」
反世界は何も答えない。答えを考えているのか、そうでないのか。
「それがなんだ」
返ってきた言葉はそれだった。お前には関係が無いだろうと嘲笑している様だった。別に、とイチは月を見る。
「もしもたった一人で居るつもりなら、寂しいなと思っただけだ」
「……寂しい」
「知らんか。感じなさそうだもんな」
「知ってはいるが、感じた事は無い」
「だろうな。俺も知ったのは最近だ」
慣れていた筈の一人きりが、そうでは無くなっていた。胸に小さな穴があいて、冷たい風が吹き込んでくる様な心地がするそれ。反世界はイチを見つめて、イチの首に触れた。
「終わらせた後、お前の首と共に在るのも良いかもしれない」
「……は、」
「そうすれば寂しくはないだろうな」
冷たい手が離れて、反世界がイチに背を向ける。ふわりと屋根から降り立って、夜の闇に姿を消した。イチは反世界が触れていた箇所に手のひらを重ねた。ほんの少しだけ口角を上げていた様に見えたあの表情が、脳にこびり付いていた。
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