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92 ◇知りたくなかった
「私、哲司くんからプロポーズされてすごくうれしかった。ほんとよ。
だけど……だけど、結婚できない。
私ね、哲司くんの奥さんになる自信がないの」
「俺はそんなに思ってもらえるほど大した人間じゃないよ。
自信ないだなんて……」
「この前会った時、離婚してるって話聞いてたけど哲司くんの奥さんだった
って人の話は聞いてなかったでしょ?
私ね、あのあと親しい人から聞いたの。
哲司くんの奥さんが温子さんだったってことと、どうして離婚になったのか、そして
温子さんが家族全員から家を追い出されたことまで、全部聞いた」
「そっか、全部知られてしまったんだ。
軽蔑されてもしようがないし、結婚を断られてもしようがないな……」
そういうと哲司はうなだれて足元を見続けるしかなかった。
できれば雅代には知られたくなかった。
この時、哲司は雅代に工場の世話をしたことを悔やんだ。
《この時ほど哲司は雅代に工場の世話をしたことを悔やんだことはなかった》
けど、あの時は掛け値なしで彼女を貧困の中から助けたいと
願ったからの結果で……。
また胸のどこかで、工場の関係者から真実が漏れるかもしれないという
思いがなかったわけではない。
それでも最悪のことが起きても雅代なら分かってくれるのでは? という甘い想いもあった。
しかし―――
自分がやったことは普通の神経をしている人間からすれば到底理解できるようなことでは
ないのだから雅代の言い分は予想してしかるべきだった。
********
「哲司くん、私、できるなら離婚の理由知りたくなかった。
知らずにいたら、私は何も苦しまずに哲司くんのお嫁さんになれたかも
しれないのに……」
そう言って雅代は泣いた。
「そうだよね。本当のことを今まで黙っててごめん。
悲しませてごめんよ」
雅代の言葉、そして痛ましい表情をただ見つめるしかできない哲司の表情も
顔色をなくしており、唇を噛み締めている様子は居たたまれない心情が身の内から溢れていた。
――――― シナリオ風 ―――――
〇公園/木陰の長椅子
蝉の声、遠くで子供の笑い声。
二人は距離をとって座っている。
雅代(しばらく沈黙したのち、震える声で)
「……私、哲司くんからプロポーズされてすごくうれしかった。ほんとよ。
だけど……だけど、結婚できない。
私ね、哲司くんの奥さんになる自信がないの」
哲司(慌てて首を振りながら)
「俺はそんなに思ってもらえるほど大した人間じゃないよ。
自信ないだなんて……」
雅代(目を伏せて)
「この前会った時、離婚してるって話は聞いたけど……奥さんだった人の話は
聞いてなかっでしょ?
でも……あのあと親しい人から聞いたの。
哲司くんの奥さんが温子さんだったってこと。
どうして離婚になったのか―――。
そして温子さんが家族全員から家を追い出されたことまで……全部」
哲司、肩を落とし、足元を見つめる。
哲司「……そっか。全部知られてしまったんだな。
それじゃあ、軽蔑されても仕方ないし、結婚を断られてもしようがない
よな……」
沈黙。
蝉の声が一層響く。
哲司、悔しげに唇を噛む。
(N)「この時ほど、哲司は雅代に工場の世話をしたことを悔やんだことは
なかった。
―――とはいえ、あの時は掛け値なしで彼女を貧困の中から助けたいと
願ったからの結果なので今更か……。
雅代(涙をこぼしながら)
「哲司くん……私、できるなら離婚の理由なんて知りたくなかった。
知らずにいたら……私は何も苦しまずに、哲司くんのお嫁さんになれたかも
しれないのに……」
雅代、顔を両手で覆い泣く。
哲司(小さく)
「……そうだよね。本当のことを今まで黙ってて、ごめん。
悲しませて……ごめんよ」
哲司も顔色を失い、俯いたまま唇を強く噛む。
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