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眠狂四郎
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上野文
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こはる
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第283話 リーネ・アスト
【現実世界・都内総合病院/特別管理病室・午後】
リーネ・アストは、窓の外を長いあいだ見つめていた。
七年前、自分がこの世界へ転移した直後にも見た景色だった。
高い建物。
道路を走る車。
遠くから聞こえる救急車の音。
あの時は何一つ意味が分からず、言葉さえ通じなかった。
そして三日後。
病室に仕込まれた経路から第三保留層へ引き込まれ、今度は景色も時間もない場所へ閉じ込められた。
そこから救い出されて。
ようやくまた、この病室へ戻った。
ベッド脇には城ヶ峰と日下部がいる。
通信端末の向こうには、王都側のイデール。
『ほんとに王都でいいの?』
イデールが尋ねた。
リーネは少し笑う。
「何度聞くの」
『大事だからだよ~』
「さっきも答えた」
『もう一回聞いておきたいの』
リーネは窓から視線を戻した。
七年間。
こちらの世界では時間が過ぎている。
だが、自分にとっては違った。
現実世界で過ごしたのは、最初の三日ほどしかない。
その後のほとんどは、第三保留層という閉じた場所の中だった。
ここに生活があるわけではない。
知っている人もいない。
帰りたい場所は、最初から一つだった。
「王都へ帰りたい」
今度は、はっきりと言った。
「治療班に戻れるかは分からない。でも、まず王都へ帰りたい」
通信の向こうで、イデールが小さく息を吐く。
『うん』
それだけだった。
無理に明るくしようともしなかった。
城ヶ峰がリーネを見る。
「では、その意思で記録します」
リーネが頷く。
日下部が端末へ入力した。
《リーネ・アスト》
《本人確認・完了》
《現在位置・現実世界》
《出身・異世界/王都イルダ》
《本人意思・帰還》
《希望帰還先・王都イルダ》
最後の項目が確定する。
高瀬直人とは反対の方向。
だが条件は同じだった。
本人が誰なのか。
今どこにいるのか。
そして。
どこへ行きたいのか。
◆ ◆ ◆
【異世界・王国警備局/臨時分析室】
高瀬の帰還から数時間。
ノノは、すでに帰還陣の再点検を終えていた。
ハレルの主鍵。
異常なし。
アデルの副鍵。
異常なし。
リオの副鍵。
亀裂拡大なし。
残存経路への負荷も、平常値近くまで戻っている。
ただし。
「同じ方法を逆にすればいい、ってわけじゃないよ」
水晶板を見ながらノノが言った。
ハレルが尋ねる。
「何が違う?」
「昨日まで、こっちから現実側へ出すことばっかり考えてたでしょ。
でも今度は現実側から、こっちへ引き込むことになる」
アデルが腕を組む。
「入口と出口が逆になる」
「そう」
ノノが図を反転させる。
現実側。
リーネ。
異世界側。
王都イルダ。
その間に、細い帰還経路。
「高瀬さんの時は、主鍵のあるこっち側から道を押し出して、現実側で受けた」
「今回は?」
「現実側からリーネさんを送り出して、主鍵のあるこっち側で受ける」
リオが右手首を見る。
「俺の副鍵の負担は?」
「高瀬さんの時より少し低くできると思う」
「何で?」
「出口が主鍵のある側だから」
ノノは中央の光点を示した。
「主鍵が出口を固定できる分、最後に座標がずれにくい。リオの副鍵は、今回も残ってる経路で補正だけ」
「なら問題ないな」
「油断はしないで」
「分かってる」
その横では
セラが、エリウスの案内層を確認していた。
高瀬の帰還後も、案内層には大きな崩れはない。
ただ一度人間を通したことで、白い経路の一部に薄い揺らぎが残っている。
セラが指先を近づけると、それが少しずつ整っていった。
ハレルが見る。
「直せるの?」
「壊れているわけではありません。人が通ったあとの揺れを、元の位置へ戻しているだけです」
「次も通れる?」
「はい。ただし、今回も一人だけです」
サキのスマートフォンでは、reが静かに光っている。
セラがそれを見る。
「外側も問題なさそうです」
reの白い線が。
王都側の受入地点へ向かって伸びていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都医療棟/帰還受入室】
リーネを迎える場所は、王国警備局ではなく王都医療棟に決まった。
長い間、第三保留層へ閉じ込められていた身体を考えれば、帰還後すぐ治療できる場所の方がいい。
帰還陣の中央。
イデールが何度も床を確認している。
ダミエは外周結界を張り、アデルとリオはそれぞれ指定位置へ立った。
ハレルは中央寄り。
胸元の主鍵へ手を添える。
ノノは王国警備局の分析室から遠隔で全体を監視している。
『現実側、聞こえる?』
『こちら日下部。準備完了です』
『リーネさんの状態は?』
『安定しています。本人意思も再確認済み』
「イデール」
リーネの声が通信から聞こえた。
イデールがすぐ反応する。
「いるよ~」
「本当に、そっちに?」
「いるよ。帰ってきたらすぐ見えると思う」
少し間があった。
「……分かった」
イデールの笑みが、ほんの少しだけ弱くなる。
「待ってるね」
◆ ◆ ◆
【現実世界・都内総合病院/特別管理病室】
リーネはベッドからゆっくり立ち上がった。
身体はまだ完全には戻っていない。
そのため、病室内に簡易的な帰還陣が作られている。
城ヶ峰が確認する。
「無理なら、今日は止めます」
「大丈夫です」
「立っていられますか」
「はい」
リーネが中央へ進む。
日下部の端末へ、王都側から確認項目が届いた。
『リーネさん』
ノノの声。
『最後に一つずつ確認するよ』
「はい」
『あなたの名前は?』
「リーネ・アスト」
『今いる場所は?』
リーネは病室を見る。
「現実世界」
『行きたい場所は?』
今度は迷わない。
「王都イルダ」
『自分で行きたい?』
「はい」
『誰かに言われたからじゃない?』
「違います」
リーネの声が少し強くなった。
「私が帰りたいんです」
数秒後。
王都側の表示へ。
《最終意思確認・完了》
が浮かんだ。
◆ ◆ ◆
ハレルの主鍵が光る。
続いてアデルの副鍵。
最後に、リオの副鍵へ最低限の出力が流れた。
『リオ、そこで固定』
「分かってる」
『アデル、二パーセント上げて』
「了解」
ダミエが外周を閉じる。
「受ける側、固定」
セラが案内層へ意識を向けた。
「現実側まで確認します」
白い経路。
前回とは流れが逆になる。
王都から現実へ伸ばすのではなく。
現実側から王都へ。
セラが目を閉じたまま言う。
「入口、確認」
少し間。
「途中層なし」
さらに。
「王都側まで繋がりました」
サキのスマートフォンで、reの白い線も一本に定まる。
エリウスの案内層。
《安全》
ノノの声。
『接続開始』
現実側。
リーネの周囲に淡い白光が立ち上がった。
◆ ◆ ◆
最初に変わったのは、音だった。
病院の機械音が遠くなり。
代わりにどこかから風の音が聞こえる。
リーネが目を見開いた。
その風を知っていた。
王都の乾いた風。
『同期、三十二……四十九……六十一……』
病室の壁に別の景色が重なり始める。
白い石壁。
魔術灯。
見慣れた王都医療棟。
そして。
その中央。
人影。
リーネの唇が動いた。
「……イデール」
まだ向こうには聞こえない。
だが、イデールは同じようにこちらを見ていた。
『七十二……八十……』
その時。
セラが眉を寄せる。
「待ってください」
ハレルがすぐ反応する。
「どうした?」
「経路の横に、古い反応があります」
アデルの目が鋭くなる。
「カシウスか?」
「違います」
セラは案内層の奥を追う。
「動いていません。第三保留層へ繋がっていた古い線の残りです」
リーネの身体がわずかに強張った。
七年前。
自分を奪った線。
ノノがすぐ波形を確認する。
『現在の帰還路には接触してない』
セラも頷く。
「はい。でも、リーネさんには見えているかもしれません」
現実側。
リーネが光の向こうを見ていた。
白い道の横。
そこに一瞬だけ。
黒い亀裂のようなものが見える。
あの場所。
第三保留層。
身体が反射的に後ろへ下がろうとした。
「リーネ!」
イデールの声が。
今度は境界を越えて届いた。
リーネが顔を上げる。
「こっちだよ~」
王都側。
イデールが立っている。
「黒い方、見なくていいよ」
リーネの呼吸が乱れる。
「でも……」
「今、帰りたい場所はどこ?」
その一言で、リーネの視線が白い道へ戻った。
「王都」
「うん」
イデールが笑う。
「じゃあ、こっち」
リーネは一度だけ目を閉じた。
そして。
自分の足で前へ進んだ。
◆ ◆ ◆
『座標移行開始!』
光が一気に強くなる。
リーネの身体が、現実側から少しずつ薄れていった。
同時に。
王都医療棟の帰還陣中央へ女性の輪郭が浮かび始める。
『三十八……五十六……』
ハレルの主鍵から伸びる光が、帰還口の中心を固定する。
アデルの副鍵が外側の揺れを押さえ、リオは残存経路だけを使って補正を続けている。
今回は右手首に強い熱は来ない。
「リオ?」
ハレルが確認する。
「大丈夫」
ノノもすぐ答えた。
『数値も安定してる。そのまま』
『七十一……八十六……』
リーネの足が
王都側の床へ触れた。
その瞬間。
イデールが一歩出そうとした。
「待って」
ダミエが止める。
「まだ触らない」
イデールは両手を胸元で止めた。
「……分かってるよ~」
声は笑っていたが
目には涙が浮かんでいる。
『九十二……九十七……』
セラが案内層を見つめる。
古い黒い経路はもうこちらへ伸びてこない。
reの白線も揺れない。
『九十九……』
一瞬。
部屋中の音が消えた。
そして。
『百』
光が収束した。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都医療棟/帰還受入室】
リーネがそこに立っていた。
足元がふらつく。
しかしすぐには誰も触れない。
ダミエが結界を見る。
ノノが反応を確認する。
セラは案内層の残留を調べる。
数秒。
『身体固定、完了』
ノノの声。
『意識反応、正常。現実側残留なし』
セラも目を開いた。
「途中層にも残っていません」
ダミエが結界を解く。
「もういい」
その瞬間、イデールが走った。
「リーネ!」
リーネが顔を上げる。
「イデ――」
最後まで言い終わる前にイデールが抱きしめた。
「ちょ……痛い」
「あ、ごめん!」
慌てて力を緩める。
それでも手は離さない。
リーネも最初は戸惑っていたが
やがてゆっくり。
イデールの背中へ腕を回した。
「……帰ってきた」
「うん」
「本当に……王都?」
「そうだよ~」
リーネが医療棟の天井を見る。
魔術灯。
白い石壁。
薬草の匂い。
そして。
聞き慣れた王都の鐘。
そのすべてを確かめるように見つめた。
「……ただいま」
イデールが笑った。
「おかえり」
◆ ◆ ◆
【王国警備局/臨時分析室】
帰還記録が更新される。
《高瀬直人》
《異世界→現実世界》
《帰還完了》
その下。
《リーネ・アスト》
《現実世界→異世界》
《帰還完了》
ノノは二つの記録を並べたまま、しばらく見ていた。
ハレルも同じ画面を見る。
「両方いけた」
『うん』
「現実から異世界も」
『うん』
アデルが言う。
「ただし、二回成功しただけだ。まだ法則として決めつけるな」
「分かってる」
ハレルが答えた。
セラも隣で頷く。
「でも、一つは確認できました」
ハレルが見る。
「何?」
「帰還は、“現実世界へ戻すこと”ではありません」
画面には。
高瀬。
現実世界。
リーネ。
王都イルダ。
二つの帰還先。
「その人が元々どちらの世界にいたかだけでもない」
セラは静かに続ける。
「本人が、自分の帰りたい場所を選ぶ。その場所へ、安全な道を作る」
ハレルはその言葉を聞きながら
以前自分が決めたことを思い出していた。
名前を確かめる。
身体を探す。
帰れる道を作る。
最後は。
その人に選んでもらう。
それが少しずつ、現実になっている。
ノノが新しい画面を開いた。
そこにはこれまでの二回の帰還記録。
名前。
身体。
現在位置。
本人意思。
帰還先。
主鍵と副鍵。
案内層。
受入座標。
すべての項目が並んでいる。
『高瀬さんとリーネさん』
『向きは逆だったけど、共通してる条件がある』
アデルが画面を見る。
「整理できそうか?」
『うん』
ノノは頷いた。
『たぶん、これで“帰還”に本当に必要なものが見えてきた』
二つの世界を行き来させるための条件。
偶然でも強制でもない。
本人が選んだ場所へ。
本人のまま帰す方法。
その形が、
ようやく一つの仕組みとして、まとまり始めていた。
コメント
1件
リーネさん、ついに帰ってきましたね…!「帰りたい場所は最初から一つだった」という言葉が胸に刺さりました。高瀬さんとは逆方向の帰還ですが、本人の意思を何より尊重するこのプロセス、本当に丁寧で美しいです。イデールが「こっちだよ〜」と笑いながら涙を浮かべているところ、そして何より「ただいま」「おかえり」の掛け合いにもう泣きそうになりました。リーネさんが自分の足で王都を選んだことが、この物語の大きな一歩になった気がします。