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信武のすぐそば。
しゅんと項垂れてつむじをこちらへ見せた日和美の様子が、イタズラを見付けられた時の愛犬ルティシアを彷彿とさせるから、信武の胸は先程とは違った意味でキュンと甘く疼くように痛んだ。
「……気にすんな」
ポンポン……と、そんな日和美の頭を優しく撫でながら、信武は部屋の片隅に安置された愛犬の遺骨が入った箱を見遣る。
(ルティ。もうちょい落ち着いたら……お前とよく散歩に行った桜並木近くのペット霊園に安置してやっからな)
恐らくそのとき、自分の隣には日和美がいて、信武が大切にしていたルティに、一緒に手を合わせてくれているだろう。
だからその時まで――。
今はもう少しだけ、骨壷を手放せない自分を許して欲しい。
***
日和美が着ている薄桃色のダブルガーゼの上下は首元がVネックになっていて、全体に大ぶりのサクランボ柄が何個も散りばめられていて。
薄手の長そで長ズボンなところが、五月半ばの今頃のシーズンには丁度良さそうに見えた。
明るい色味のパジャマを着た日和美に対して、信武はダラッとした、モカブラウンの薄手亜麻布の上下を身に着けている。
別に並んでも全然ちぐはぐではないけれど、いつか日和美とペアものの部屋着を買うのも悪くねぇな……なんて思ってしまった信武だ。
「なぁ、いつまでもンなトコに突っ立ってないで……さっさとこっち来いよ」
ホットミルクを飲んで歯磨きを済ませて。
さぁそろそろ寝ようか……とふたり連れ立って寝室まで来たはずなのに、気が付けば寝室入り口で固まったみたいに動かなくなってしまっていた日和美に、信武が苦笑交じりで誘い掛ける。
寝室からは先程の情事の痕跡はすっかり消し去られていたし、何なら部屋の換気だってバッチリ済んでいたのだけれど。
「あ、あの……でも」
ここへ戻って来ただけで、初めて経験した刺激的なあれやこれやを思い出したんだろうか。
日和美が戸惑いに揺れる瞳でベッド前まで進んでいた信武を見詰めてくる。
信武は日和美に気付かれないよう小さく吐息を落とすと、立ち尽くしたままでいる彼女の元まで戻って、所在なげに降ろされたままの日和美の手を取った。
部屋の電気は先程までと違って、シーリングライトに至るまでわざと煌々と灯してある。
薄暗い雰囲気のままだと、日和美が逆に恥ずかしがる気がしたからだ。
「今日初めてだったお前相手に、これ以上無理させる気はねぇから安心してこっち来い」
言外に今夜はもう何もしないと告げたら、日和美がほんの少しだけ身体から力を抜いたのが分かった。
「ホントに……今夜はもう何もしない?」
それでもすぐそばに立つ信武を、潤んだ瞳で訝るみたいに見上げてくるから。
信武は思わずククッと喉を鳴らした。
「まぁあれだ。お前がして欲しいっちゅーんなら別だけど……?」
「し、して欲しくありませんっ!」
真っ赤な顔をして日和美が唇をとがらせるのが可愛くて思わずその唇をギュッとつまんでしまった信武だ。
「信武っ。痛いっ」
そんなやり取りのお陰だろう。
日和美がやっと緊張を解いてくれて、ベッドに近付いてきてくれた。
と――。
「えっ。あのっ、信、武っ……これ……っ」
ベッドサイドに置かれた半月型のサイドボード上を指さして、日和美が指先を震わせる。
「ああ、それ……な」
日和美がフルフルと震える手で指し示した木製の折り畳み式フォトフレームを机上から手に取ると、信武が愛しそうに中の写真を撫でる。
片側に信武の愛犬ルティシアの写真が入れられているのは、日和美も知っていた。
けれどもう一方の写真は、信武に抱かれてこの部屋に入った情事直前には死角になっていて見えなかったのだけれど。
今、それがはっきり見えてしまって、オロオロしている真っ最中の日和美だ。
「すっげぇ可愛いだろ? ――俺がお前に一目ぼれした写真」
それは今から約三年前。
成人式の時に振袖を着て写真館で撮った、日和美のめかし込んだ写真だった。
萌風もふ先生が『犬姫』の著者近影で、和装姿を披露していたのを覚えていた日和美は、彼女のような着物の似合う大和撫子になりたいとずっと憧れていて。
成人式で振袖を着せてもらった際、妙にテンションが上がったまま「成人式でおめかしをしました!」という文言とともにファンレターに写真を同封して送ってしまったのだ。
後で冷静になってから、「なんて恥ずかしいことを!」と後悔したけれど後の祭り。
しばらくはソワソワと落ち着かない日々を過ごした日和美だったけれど、萌風もふ先生自身から何らリアクションがあるわけじゃなし。
(あれはきっと、数あるファンレターの山に紛れてスルーして頂けたんだ!)
(そもそも一ファンからの何てことのない手紙なんて、売れっ子作家の萌風先生がいちいち覚えているわけないもんね)
そう思っていた。
それなのに――。
***
「な、んでっ、信武さんがこの写真を部屋に飾ってるんですかっ」
立神信武=萌風もふだというのも、さん付けで呼ぶなと言われていたことも全て吹っ飛ばした様子で、日和美がフルフルと羞恥に身体を震わせるから。
「何でって……お前が俺にルンルンで可愛い写真、送って来たからに決まってんだろ」
「る、んるんなんかじゃ……っ」
ありません!と言い切れなくて、言葉に詰まったみたいに目元を潤ませる日和美を、信武はククッと笑いながら見遣って……。
「キャッ!」
不意にベッドサイドへ立ち尽くしたままでいた日和美の手を引いて、腕の中へ閉じ込める。
そうしてシャンプーの柔らかな香りが漂う日和美の洗いたての髪の毛に鼻先をうずめると、信武は彼女の腰に回した腕へ気持ち力を込めた。
「この写真さぁ、見た瞬間あんまり可愛くて……俺、心臓止まるかと思ったんだけど」
元々萌風もふとしての信武へファンレターをくれる子たちの中で、山中日和美という女の子は突出している特別な存在だった。
自らの経験を交えながら語られる、若い女性特有の感性に満ちあふれた、丁寧で読み込みの深い作品への感想と並々ならぬキャラクターたちへの愛。
新作が出ようが出まいがお構いなしに毎月律儀に送られてくる、歳時記顔負けの日々のよしなしごととともに綴られる、萌風もふ=信武自身の体調を気遣う手紙と、それを裏付けるように時折同封される様々なプレゼント。
読んでいて照れ臭くなるくらい全身全霊で『あなたと、あなたの作品のことが大好きです!』と訴え続けられていた相手が、山中日和美と言う名を冠したファンだったのだ。
その子が初めて見せてくれた、自分自身の写真が成人式のそれだったのだけれど。
好きだと言われ続けてきた相手が、胸をギュッと鷲掴みにされるぐらい好みの顔立ちだったのだ。
惹かれるな!と言われる方が無理な話ではないか。
だが、作家とファンという均衡を崩したくなくて、信武はあえて何年もリアクションを起こさずに来たのだけれど。
ルティの死さえなければ、恐らくそれは今でも継続中だっただろう――。
「日和美は知らなかっただろうけど……俺はもうずっと長いことお前に片思いしてたんだぜ?」
信武に抱き締められているからだろうか。
髪の毛の間から見えている日和美の耳が真っ赤になって熱を持っているのが分かって。
信武は引き寄せられるように日和美の耳朶をハムッと唇で柔らかく食んだ。
「ひゃわっ」
途端ビクッと身体を震わせて首をすくませる日和美が愛しくてたまらなかったから。
信武はスマートスピーカーに「コダマ、部屋の明かりを落として」と命じると、日和美を腕に抱いたままベッドにごろんと寝そべった。
そんな信武の腕の中。
日和美がギューッと身体を縮こまらせて、目を白黒させているのだけれど、突如暗闇に包まれた寝室の中ではお互いの息遣いだけが全てだった――。