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「なぁ日和美。いい加減うちに越して来いよ」
日和美に全てを洗いざらい告白して、身体を繋げてから一ヶ月余り。
 時節はじめじめと鬱陶しい日が多い、梅雨の長雨に差し掛かっていた。
 
 信武は今、萌風もふとしての締め切りに追われている真っただ中。
 別々に住んでいるがゆえに、なかなか日和美との時間が取れないことが目下のところ最大の悩みの種で。
冒頭のように同棲しようとずっと日和美に持ちかけているのだけれど、信武の恋人はなかなかに手強かった――。
 
 ***
 
 久々に日和美が夜マンションまで来てくれて、一緒に夕飯を食べて。
 当然、さぁこれからまったり・イチャイチャ・ラブラブタイムが満喫出来る!と期待していた信武だ。
なのに皿の片付けを終えるなり、日和美が「明日も仕事だから帰るね」と情ない態度を取るから。
 信武はどうにも納得がいかない。
 それで、玄関先。
愛車のキーを手にして靴を履いた日和美に、信武がブーブーと文句を言っている真っ最中。
 とはいえ、こうなったのにはちゃんと理由があって。
 食事中、日和美からさり気なく仕事の進捗状況を聞かれた信武が、「まぁまぁだ」と言葉を濁したからに他ならない。
 日和美は、信武のそのセリフを「まだまだだ」と脳内変換したようなのだ。
 
 「ねぇ信武。お仕事、まだ終わりそうな目処が経っていないんでしょう? お願いだからしっかりお仕事して? 私、新作読めるの楽しみにしてるんだから」
 土間の上。
段差のせいで普段より十センチくらい余計に身長差が加わった分、いつもより角度を付けて信武を見上げてくる日和美に、不機嫌さを隠さずに口をへの字に曲げたら「そんな顔しないの」と頬を優しく撫でられた。
 この一ヶ月ちょいで、すっかり信武を呼び捨てすることにも慣れたらしい日和美は、最近言葉遣いからも敬語が外れてきている。
 
 「締め切りは破りゃしねぇよ。今までだって……それこそ記憶喪失になった時しか原稿落としたことねぇし」
 「でも茉莉奈さん、最近の信武は結構締め切りギリギリでヤキモキさせられるってこぼしてたよ? 私と付き合い始めてからそんな風になったって思われたとしたら……すっごく悲しいんだけどな?」
 言われて、信武は心の中で盛大に溜め息をついた。
 (日和美のやつ、ここ最近俺といる時間より茉莉奈といる時間の方が長くねぇか?)
 信武のいないところで、信武の担当編集であり従姉でもある土屋茉莉奈と、喫茶店でお茶をしたりレストランへランチを食べに行ったりと、かなり友好的に付き合っているらしい日和美に、信武はちょっぴり――いや、かなり――ヤキモチを妬いていたりする。
 信武のマンションで原稿待ちをしていた茉莉奈を、たまたま居合わせた日和美が気に掛けてもてなしたことが、二人を懇意にしたきっかけらしいというのも、何だか自分のせいみたいで死ぬほど腹立たしいではないか。
 
 ***
 
 『前に信武が茉莉奈さんと打ち合わせをしてた喫茶店があるでしょ? 私の職場近くの――』
 『喫茶まちかど?』
 『そう、そこ! 私、あそこに行くの、ずっと憧れてたんだけど一人じゃどうしても敷居が高く感じられて行けてなくて。そう話したら茉莉奈さんが一緒にランチ行こうって誘ってくれたの。今日のお昼はそこだったんだけどね、コーヒーはもちろん、ナポリタンが凄く美味しくて感動しちゃった! 信武も仕事が落ち着いたら一緒に行こうね?』
 以前そんな風に日和美に語られた時には、内心(何で俺じゃなくて茉莉奈と行ったんだよ! 簡単に俺以外のやつに初めてを奪わせてんじゃねぇよ!)と思ってしまった信武だ。
 それに――。
 ただ単に日和美が信武以外の人間と仲良くなるというだけでも何だか腹立たしいと言うのに、茉莉奈はちょいちょい信武の仕事上の愚痴を日和美にこぼすらしく、それが何とも性質が悪いのだ。
 恐らく意図的に日和美から信武へ発破を掛けさせるための茉莉奈の作戦なのだが、日和美はそんな茉莉奈の思惑なんて気付かないんだろう。
純粋に信武の仕事の進み具合を心配してくるから、信武としては物凄くやりづらい。
 
 ***
 
 「いや、だから! お前は俺の仕事のことなんて気にしなくていいんだよ。茉莉奈の言うことはハッタリも多いし……とにかく気にすんな」
 「無理! だってすっごく気になっちゃうんだもん! 私、貴方の大ファンなんだからね⁉︎」
 それは萌風もふとしてはもちろんのこと、立神信武としても同等なのだと日和美が熱い視線を送ってくるから。
 信武はグッと言葉に詰まってしまう。
 
 「お、お前が! 一緒に住んでくれたら俺、すっげぇ〝ヤル気〟が湧いてくんだけどな?」
 一呼吸置いて苦しまぎれ。そんな風に言ってみた信武だったのだけれど。
 「前からずっとそれ言われてるけど……信武の言う〝ヤル気〟って仕事だけにかかってるように思えないから却下ね? それに……私の職場、うちのアパートからの方が近いんだよ? 信武ん家からだと距離が倍になるからイヤだ。最近梅雨入りして雨降りの日が多いし、歩く距離が伸びたら足元びしょ濡れになっちゃう!」
 「そんなん! 俺が送り迎えしてやりゃー解決だろ!?」
 日和美の言葉に、思わずそんな風に返してしまった信武だ。
「はいアウト! それ、本末転倒だからね⁉︎ 信武にそんな無駄な時間過ごさせたら私、ますます茉莉奈さんに合わせる顔がなくなっちゃう!」
 だが即座に至極まともな反論をされて、信武は悔しまぎれ。半ば駄々っ子のように言葉を紡いだ。
 「茉莉奈は俺が黙らせるし問題ねぇわ」
 「いや、問題しかないでしょ! 貴方の熱烈なファンの一人としても、先生の執筆の妨げになるようなことは断固拒否します!」
 日和美の意志は岩より固かった。
 
 ***
 
 「信武、本気なの?」
 日和美との攻防戦があった翌日。
死ぬ気で原稿を仕上げた信武は、茉莉奈をマンションに呼びつけて出来立てホヤホヤの原稿を手渡した。
 その上で思ったことを告げたら物凄く驚かれて。
 「ああ、本気だ」
 言ったら、「貴方、昔から言い出したら聞かないから」と半ば諦めモードで吐息を落とされた。
 信武は茉莉奈への意志表示を済ませてから、即座に父親である立神信真にアポを取って。
 妻であり信武と弟真武の実母でもあるマノンととともにマンションを訪れた信真に
 「俺、新刊出たらその印税で引っ越すから」
 唐突にそう告げた。
 
 ***
 
 引っ越しの理由はいつまでも親のすねをかじるような真似をしていたくないから、などともっともらしい理由を全面に押し出した信武だ。
 「けど信武。お前、ここの家賃はちゃんと満額自分で払ってるわけだし……それこそ光熱費やその他もろもろも自分で賄えてるじゃないか。父さんはお前にすねをかじられてるなんて思ったことはないし、むしろうちの社を支えてくれる稼ぎ頭だとすら思ってるくらいだぞ?」
 言われて、それはそうなのだが……と危うく流されそうになって、信武は慌ててそんな考えを否定した。
 「普通に貸すより格安料金だって……俺が知らねぇと思ってんの?」
 このマンションが父・信真の持ち物である限り、その辺はやはり少なからず優遇されている。
 それに、何よりここにいたら常に親の庇護下にあるとともに監視下に置かれているような気持ちが拭えないのも事実。
 この際、信武はそう言う柵を全て断ち切ってしまいたいのだ。
 一度は日和美をここへ越してこさせて……とか考えていた信武だけれど、頑なに渋る日和美を見て、現状のままでは駄目だと理解して――。
 (日和美を納得させるためにもここじゃダメなんだよ)
 そんな風に考えを改めていた。
 
 ***
 
 これは、両親に日和美とのことを話さないまま前には進めないかも知れない。
 そう思った信武だったのだけれど。
 
 「もぉ~。ホント信真くんはニブチンなんだからぁ~」
 信武が口を開こうとした矢先、今まで黙って夫と息子の会話を聞いていた母・マノンから間延びした声が割って入った。
 そればかりか、マノンが信武に向かってしたり顔でにっこり微笑むから。
 「――?」
 何が言いたいんだよ?と思いながら見詰め返した信武だ。
 そんな信武の視線の先で、マノンのショートカットに切りそろえられた春の陽だまりみたいなキラキラの金髪が、彼女が小首を傾げたのに合わせてさらりと揺れて。
 信武は、不覚にも自分の母親をまるで天使みたいだと思ってしまった。
 髪色のせいだろうか。
幼い頃から、どちらかと言うと母親似だと言われ続けてきた信武は、粗野な口調の自分がこのピュアっピュアな印象の母親に似ていると言われることに、何だか少し申し訳ない気持ちがしたものだ。
 
 「信武くぅーん。私、茉莉奈ちゃんから聞いて知ってるのよ? 貴方に可愛い可愛い彼女が出来たってこと♥」
 そのせいでマノンが、そのほわんとした外見には似合わず、ある有名ボクサーのように〝蝶のように舞い、蜂のように刺す〟やり手経営者だということをすっかり失念してしまっていた。
 「しぃーくんは大好きな彼女と一緒に暮らしたくて、のぶくんが用意した檻から抜け出たいだけなんでしょう?」
 母・マノンは、自身の血統であるフランスと、生まれ育ったアメリカ、それから夫の故郷である日本の三国を股にかけて商品展開をしている化粧品会社『ジャパフラメリカ』のCEOなんてしていたりするのだが、家でのふんわりした姿を見る限り、彼女がやり手の経営陣トップだとはどうしても思えない信武だ。
 だが、今ふんわり目の前で微笑んでいるマノンは、間違いなくやり手経営者の目をしていたから。
 図星をさされた信武は、思わずソファーの上でピシッと姿勢を正した。
 「ふふっ。その感じからしてビンゴね?」
 信武の様子にマノンが微笑して、一人話が見えていない父・信真が、
「マノン? 彼女とか檻とかビンゴとか……。一体どういう意味なんだい? 私にも分かるように説明してくれないかな?」
キョトンとした顔でそんな二人の様子を交互に見遣った。
 
 ***
 
 両親に日和美のことを話した数日後。
 日和美がマンションへ遊びに来ている時、たまたまそこへ鉢合わせた体を装って、信真、マノン、信武、日和美の四人でお茶を飲む機会を設けた。
 信真もマノンも仕事でバタバタとあちこち飛び回るタイプだったから、日和美が信武の両親と顔を合わせた時間なんて、トータルで三〇分にも満たなかったと思う。
 だが、彼氏の家でホワンとテレビを観ていたら、突然彼の両親が訪問すると言うドッキリなシチュエーションを経験させられた日和美にとってみたら、きっと物凄く長い三〇分間だったはずだ。
 そもそも信武、日和美にはまだ同棲計画のことを打ち明けていなかったし、そのために近々引っ越ししようと画策しているだなんてことも、話していなかったから。
 信真たちにもその辺りは口止めしておいたので妙な空気にはならずに済んだけれど、信武としてはかなり後ろめたい時間だった。
 日和美が両親――特にマノン――の好奇の目にさらされて質問攻めにあっている横で、信武は必死に日和美の盾になったつもりではあったけれど。
 (ごめんな、日和美。全部話してお前からOK勝ち取ったら、俺もお前の家族にちゃんと挨拶行くから……。今回は許せ)
 日和美には父親しかいない。アポを取るならその父親と、彼女を育ててくれた祖父母の三人に、になんだろうなと頭の中でぼんやり考えて。
 別に現段階で日和美との結婚云々を計画しているわけではない信武だったけれど、「同棲するなら彼女のご家族にもちゃんと許可を取りなさい」と、信真から嫌と言うほど言われてしまったから、そんなことを慮らずにはいられない。
 日和美自身はもちろんのこと、日和美側のご家族からも同棲の許可を取ること。
決して仕事に穴をあけないこと。
お互いに子作りの意志がないうちはちゃんと避妊をすること。
 その三つが守れるならば、信真もマノンもいい年をした息子のやる事に干渉はしないと約束してくれた。
 そもそも弟の真武の方が破天荒な性格で親を振り回しているから。
何だかんだ言って大きく道を踏み外さない、如何にも優等生な長子気質の信武のことは信頼してくれているらしい。
 
 ***
 
 両親には次の印税が入ったらとか話した信武だったけれど、結局のところ次々と立て続けに仕事が入って、なかなか身動きが取れなくて。
 そうこうしている間に萌風もふとしての新刊『あなたと二度目のフォーリンラブ~記憶喪失の彼と、恋のおさらい始めます!~』の発売日が決定してしまった。
 新作はタイトルの通り、日和美と自分とのことを敢えてヒーロー目線ではなくヒロイン目線で描いた、実話が元ネタの作品だ。
 茉莉奈に許可を取って、日和美にはプロット段階で一度だけ「こういうのを世に出そうと思ってんだけど、構わねぇか?」とチェックしてもらっている。
 実際は書きあがった原稿に関しても、校正前のものならば彼女もモデルの一人ということでまずいところがないか読ませても構わないとまで言われていたのだが、これに関しては日和美から「めっちゃ気になるし、すっごくすっごく読みたいけど……お願い! 本の形になるまでは我慢させて? 私、信武がノンフィクションをフィクションに仕立て上げられる優秀な作家さんだって信じて待ってるから!」とかわされてしまって。
 もちろん信武自身、二人のプライベートを洗いざらい世間に発信する気なんてさらさらなかったから、プロットの段階からヒロインとヒーローは同じ文具会社に勤める同僚と言う設定に変えてあったし、ジャンル的に言うといわゆるオフィスラブ仕立てにしてあった。
 男が記憶を失った理由も、道を歩いていたらいきなり空から布団が降って来た!だなんて突飛なものではなく、交通事故に巻き込まれそうになった彼女を庇った際に、頭を強く打ったからという当たり障りのないものに変更してある。
 デビューからずっとファンタジー系しか書いてこなかった萌風もふとしては、現代もののオフィスラブを書くのにはかなり苦労したけれど、この作品だけはどうしても〝立神信武〟としてではなく、日和美が最初に自分を見つけてくれた〝萌風もふ〟として書き上げたかったのだから仕方がない。
 萌風として書くと決めたことで思いのほか書きづらくて執筆に手間取ってしまったけれど、最終的には納得のいく仕上がりになったと断言できる。
 
 その本の見本誌を茉莉奈から数冊受け取った際、信武が誰よりも一番最初に読んで欲しいと思ったのは、もちろん日和美だ。
 
 ――発売日より二週間ばかり前のフライングだが、そのくらいは関係者ということで許して欲しい。
 そんなことを言って、見本で届いた一冊を日和美に渡す許可を版元社長である父と、担当編集者である茉莉奈から取り、日和美に渡せる手配を整えた信武だったのだけれど。
 ほんの少し前まで自分がそうだと打ち明けられずに隠してきた萌風もふとしての本を、いざその大ファンである日和美に手渡すとなったら、やたら照れくさくなって。
 「ん、コレ! 本の形になったからお前にも一冊やる。発売日はまだ二週間ほど先だからオフレコな?」
 照れ隠し。
少し視線を逸らしながらぶっきら棒にサインまで入れた見本誌を日和美の前に突き出したら、日和美が「キャー! 嘘ぉーっ! 信武! 有難う!」っと黄色い声を上げて受け取ってくれた。
 その上で――。
 「信武っ。本当申し訳ないけど私、今から二、三日音信不通になるね! 読み終わったらファンレター持って遊びに来るから! ……それまでは絶対絶対会いに来たりしないでね!? 電話も駄目よ? 萌風先生の世界に浸るの、邪魔したら許さないんだから!」