テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
今日も今日とて💚💙
第八話 30センチの余裕
亮平 side
玄関を開けた瞬間、分かる。
今日は少し、静かだ。
ソファの端に、小さく丸まっている背中。
綺麗に整った襟足が、やけに色っぽい。
髪を染め直したみたい。
刈り上がった根元は暗めでトップはいつもより明るい色味で肌の白さが引き立っている。
その綺麗な後ろ姿に思わず飛びつきたくなって、一歩足を大きく前へ踏み出した。
「ただいま」と言うより先に、踏み出した一歩。
帰ったら抱きしめるつもりだったのに。
タイミング悪く、同時に電話が鳴った。
翔太の襟足に向かって伸びていた腕を引っ込めて、電話に応答する。
――照からだ。
「なぁに?」
ピクリと反応した翔太。
雑誌を読んでいる“ふり”をかましている。
――ふり、ね。
そんな分かりやすさも、愛おしい。
「えっまじ行く行く」
少し大袈裟に電話に反応してみる。わざと声を弾ませ楽しそうに。その間、視線は常に横目で俺に向けられている。
……分かりやすい子。
可愛い。
隣に座る。
思い切り体重を乗せてしまい、少しバランスを崩した翔太の体が揺らいで可愛らしい。
翔太までの距離、30センチ。
ちょうど雑誌一冊分。
手を伸ばせば届く距離なのに、触れない30センチ。
俺が笑うたびに、隣の空気がきゅっと縮む。
冷たいコート越しに、そっと近づく体温。
照との電話は弾み、二人で念願だったスキューバの予定を立てた。
ゆっくりと伸びてきた翔太の白い腕が、俺のシャツの裾を掴みたそうに彷徨うと、伸びてきて――諦めた。
……掴みなさいよ、バカモノ
嫉妬してるくせに触らないの、反則だろ。
我慢なんかしちゃって――
可愛い。
雑誌を眺めている、〝ふり〟の翔太。
ページをめくる指が止まる。
笑い声のたび、呼吸が浅くなる。
分かりやすい子。
可愛い。
そんな顔されたら、触らないほうが無理だろ。
照、ごめん。もう内容入ってこない。
そう思った、その時。
「……りょ、」
小さすぎる声。
息に溶けるみたいな、頼りない一音。
心臓が跳ねた。
……反則。
電話の向こうで照が何か言ってる。
「ん? ああ、うん」
適当に相槌を打ちながら、視線は完全に隣。
ブランケットをぎゅっと握る指。
俯いた睫毛。
触れたいのに、触らない距離。
30センチ。
雑誌一冊分。
さっきまで保てていた余裕が、音を立てて削れていく。
“りょ、”って。
名前の途中で止めるの、ずるいだろ。
呼ぶ気なかったくせに。
漏れただけのくせに。
ちゃんと届く声してる。
とうとう雑誌一冊分の、遠慮の距離を越えて、伸びてきた白い腕。シャツの裾ギリギリを人差し指と親指で摘んだ。
〝すぐ終わるから〟
もう少しだけ、意地悪したくて放った言葉に、盛大にいじけた翔太は、ブランケットの中に潜ってしまった。
あら、少しやりすぎた――
静かになる。
「……おかえり」
隣の空気が、一瞬で熱を帯びる。
ブランケット越しの彼の声は籠っていたけど、はっきりと聞こえた。
――はぁ、
……終わった。
電話どころじゃない。
「……悪い、あとでかけ直す」
自分でも驚くくらい早く切った。
聞こえないふりなんて、できるわけない。
胸の奥が、きゅっと締まる。
30センチ。
たったそれだけの距離が、やけに遠い。
さっきまでは“余裕”だった。
今は――ただの我慢。
「聞こえてる」
低く落とした声が、少し掠れる。
ブランケット越しに近づくと、肩が小さく震えた。
電話を邪魔するつもりなんて、なかったのだろう。左右に触れた青黒い瞳が物語っている。
シャンプーの匂いを纏った彼ごと引き寄せる。
「ただいま、って言わせろよ」
本当は、玄関で言うつもりだった。
抱きしめながら、言うつもりだった。
それを奪ったのは電話じゃない。
目の前の、この可愛い嫉妬。
30センチなんて、最初からいらなかった。
手を伸ばすと、縮まらない距離。
なんの計算もなしに放ったつもりの一言に、〝カッコよく言ったって騙されないぞ〟とご立腹の翔太。そのまま寝室に逃げ込まれてしまった。
少し意地悪が過ぎたみたいだ。
俺の余裕が、なくなる。
30センチの余裕なんて、
君の“りょ、”ひとつで簡単に壊れてしまうのに、当の本人は無自覚なのだから困ったモノだ。
さっきの「すぐ終わるから」が、思った以上に彼を遠ざけた。
扉を開けると、毛布に包まった小さな塊。
さっきまで隣にいたくせに。
ベッドの端に腰を下ろすと、わずかに沈むマットレス。
その揺れだけで、毛布がぴくりと動く。
起きてる。
分かりやすい。
30センチ。
ベッドの上でも、まだそれくらいの距離。
手を伸ばせば届く。
でも、さっきまで触れなかった距離。
毛布の端に指をかける。
少しだけ引くと、赤くなった耳が見えた。
可愛い過ぎかよ……ほんと、敵わない。
声にしないまま、ゆっくり近づく。
呼吸が、混ざる。
「……」
言い訳みたいに揺れる肩。
毛布ごと引き寄せると、
抵抗は、ない。
胸に当たる額が、熱い。
そのまま、耳元に落とす。
「ただいま」
今度は、ちゃんと。
少し遅れて、胸元で小さく動く唇。
「……おかえり」
ほとんど息。
腕の中に収まる体が、ぴたりと落ち着く。
こんな距離、意味なんてない。
余裕ぶっていただけだ。
本当は――もう限界だった。
可愛い顔を、もう少し見ていたくて。
頬に触れる指先。
逃げない。
今度はちゃんと、服を掴んでくる。
体温が重なった瞬間、部屋の音が全部やんだ。
視線が絡む。
何か言いたげに揺れる唇。
でも、言葉にはならない。
代わりに――
胸元を掴んでいた指が、ほんの少しだけ引いた。
距離が、縮まる。
……え、
一瞬、息が止まる。
睫毛が触れそうな距離で、翔太がぎゅっと目を閉じた。
覚悟みたいに。
その仕草が可愛すぎて、もう無理だった。
「それ、ずるい」
呟きながら、引き寄せたのは俺だけど――
きっかけは、確実にそっちだ。
そっと、唇を重ねる。
触れるだけの、やわらかいキス。
震えた呼吸が、唇越しに伝わる。
離れようとした瞬間、
今度は逃がさないみたいに、服を掴む力が強くなる。
……ああ、そういうこと。
笑ってしまいそうになるのを堪えて、もう一度。
今度は少しだけ長く、静かに。
触れて、離れて、また触れる。
確かめ合うみたいに、ゆっくり。
離れたあと、翔太は顔を隠すみたいに胸に額を押しつけた。
耳まで真っ赤。
「……ただいまの、だから」
ぼそっと落ちた声が、胸の奥まで甘く沈む。
反則。
指先で頬に触れると、
逃げるどころか、少しだけ擦り寄ってきた。
……もう、無理。
「おかえりの分、もう一回」
囁いて、額に軽く口づける。
それだけで肩の力が抜けるのが分かる。
30センチなんて、最初からなかった。
触れた瞬間、全部ゼロになる距離だった。
名前を呼ばれなくても分かる。
服を掴む指が、少しだけ強くなる。離さない、の合図。
その手を取り、指を絡ませる。
掌の温度が、じわじわ溶け合う。
君との距離ゼロセンチ。
始まりは――もう、とっくに決まってた。
「しんぞうは……大丈夫そ?」
「……そっちだって、うるさい」
重ねた指が、何度も結ばれる。
どちらのものか分からなくなるほどに、絡まった足が幾度となく入れ替わり交わった。
呼吸がひとつに重なって、
ふたりの間に、もう測れる距離はなかった――
今日も今日とて甘い夜。
君とドキドキ。
30センチで、余裕崩壊。
コメント
6件

めっちゃきゅんきゅんした💚💙可愛い〜