コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
呪縛の歌が消え失せると、勝利の雄叫びをあげるように解放の歌が拳を天高く掲げる。すると響き渡る拳が緑の空を貫いて破り、眩いばかりに輝く青い空がクヴラフワ全土に晴れ渡った。八つの緑の太陽は瞬く間に立ち去り、代わりに本来の唯一の白く輝く太陽に照らされ、鮮烈な夏の熱が肌寒かったクヴラフワを覆って、呪いに倦み疲れた街々に清新の気を吹き込む。白い雄大な雲が浮かぶ空から蜘蛛の糸が虚空に解けて消える。クヴラフワの多くを占めた九つの呪いが泡のように弾け飛び、境界に蟠っていた無数の呪詛が蒸発する。同時に克服の祝福の魔術も機能しなくなり、人々が解放される。
蜘蛛の糸の舞台が消え、神殿だったモルド城と仮宿の屋敷が空から崩れ落ちて行く。ユカリたちは地上へと帰還した。
空から光の粒が降ってくる。ユカリの髪飾りがそれを吸収する。今まさにクヴラフワ中に根付いていた合掌茸の魔導書が胞子となって降り注いでいるのだ。莫大な量の胞子は長く引いた白い雲となっていて、さっきまで空を渡って伸びていた蜘蛛の糸によく似ていた。髪飾りが全てを吸収すると残りは皆が身に着けた装身具と化した魔導書だけだ。銘々が装身具を外してユカリに託す。
ベルニージュが耳飾りを、グリュエーが腕輪を、ソラマリアが首飾りを、レモニカが指輪を。
指輪を外した途端、レモニカはエイカの姿になる。四つの装身具の上に指輪を重ねる前にユカリは問いかける。
「封印しても良いの?」
条件付きでもレモニカの呪いを解く魔導書だ。その条件も身に着けるだけのことだ。
レモニカはユビスの毛並みを手で梳きながら不意を打たれた様子で眉を寄せ、ユカリの真意を問うように紫の瞳を覗き込む。
「わたくしが望めば魔導書の封印をやめてくださるのですか?」
「あ……、いや、その……」ユカリは目を彷徨わせ、言うべき言葉を探す。が、見つからない。
「それは気遣いではありませんわ、ユカリさま」レモニカははっきりと指摘する。
「ごめん。ごめんなさい」
「ですが、わたくしの呪いを気にかけてくださることには感謝いたします」レモニカが指輪をユカリに握らせる直前で止める。「……ところで、これらの装身具には個別の名前はつけないのですか?」
「つけないよ。全部『合掌茸』の一部でしかないからね」
「そういうものですか」
レモニカは肩を落として今度こそユカリに指輪を握らせる。
全ての魔導書が触れあった瞬間、世界の全てが遥か彼方に後退し、ユカリの視界は真っ白な光に包まれ、その光も過ぎ去ると後には暗闇だけが残る。あらゆる方向が剥奪された空間に真白の光が四つ、果てに輝いていた。
何にも覆われていないユカリの心が無辺の空間に浮かんでいる。足の長い兎のような、耳の長い猫のような、尻尾の長い熊のような白い獣はいつものように転がっている。
もしかしてここって深奥と関係ある?
「深奥? 何それププ?」
何かって言われると分かんないけど、普通とは違う空間だよ。
「前にも言ったププ。そっちの世界の法則とか、それらを何と呼ぶかは知らないのププ。もしかしたら深奥とやらと同じなのかもしれないププ。けど、そうじゃないかもしれないププ」
あと、それと私の使命って何?
「ププ!? 魔導書を集めることププ! 忘れてしまったのププ!?」
覚えてるよ。こうして五冊目を集めてるじゃない。そうじゃなくて……。
ハーミュラーもまた使命を掲げ、また使命に縛られたことが気にかかった。ハーミュラーに【憑依】してもなお完全には制御を奪えなかった。ハーミュラーが言うには、使命が体を突き動かしているのだ、と。それにグリュエーもまた妖術で魂を分ける時は使命を与えるのだと表現していた。
「嫌になったのププ?」
そんなことないよ、安心して。ただ、まだまだ学ばないとって思ってね。さあ、五冊目を封印して。
「ププ! 封印するププ!」
白く輝く五つ目の星が虚空に灯る。
気が付けばユカリは一冊の魔導書を持って立ち竦んでいる。傍らにはベルニージュが、既に魔導書の表紙を覗き込んでいた。
「それで?」とベルニージュが問う。
「何が?」とユカリは答える。
「今度のは何て題名?」
『スーパーアイドルみどりちゃん』。
前世の世界の何者か知らないが、何とも居たたまれない気持ちになりつつユカリの頭は高速で働く。
「『偶像異本』、って書いてあるね。うん。はっきりそう書いてある」
「偶像? なんで偶像? ああ、信仰から……。いや、でも、……ふうん」
ベルニージュは自分の頭の中の世界で思索を始める。
「ハーミュラーに関してはどうするつもりなんだ?」とソラマリアに意見を求められる。
「どうしたいとも思いません」ユカリは空から落下し、砕け散ったモルド城の方を眺める。「そもそもの原因は呪いであり、クヴラフワ衝突であり、けしかけたのはシシュミス神なわけですし。ハーミュラーさんだけが囚われたり、罰されたりするべきではないと思います」
呪いも魔導書もなくなった今、同じようなことは二度と出来ない。そもそもクヴラフワは救われたのだから動機もない。与えられ、果たされることのなかった使命は消える他ない。
そのような綺麗ごとを言ったところで、糾弾は免れないのだろうことも分かっている。
「ハーミュラーは恨まれるかもしれないねえ」とジニがぼやく。
ジニとエイカが屋敷の瓦礫から降りてくる。
「義母さん! 無事だったんですね!」ユカリは駆け寄り、いつからか細くなった義母に震い付く。「あとエイカも」
エイカは不満げにユカリを見上げる。「さっきは母さんって呼んでくれたのに」
「呼んでないです」とユカリは断じる。
「ねえ、そろそろ行かない?」とグリュエーが不安そうに尋ねる。
「行くってどこに?」ユカリは尋ね返す。
屋敷は壊れてしまった。宿屋でも探すのだろうか。
「南に行けば、グリシアン大陸のほぼ中心、ハチェンタ民族会」とベルニージュ。
「西なら、……ライゼン大王国ですわね」とレモニカ。
「北は北極海に突き出る半島、ガレイン連合だな」とソラマリア。
「ああ、そういう意味? それなら北だね」とユカリは即決する。
「魔導書の気配を感じるのか?」とソラマリアが訊く。
「いえ、まだです。でも大陸中を見て回らないと魔導書を見落としてしまうし、何よりグリュエーの分けた魂が北にも向かってるんです。だよね?」
「あ、うん。それもそうなんだけど、そういう話じゃなくて」と答えつつグリュエーは残骸の散らばる通りを覗き込む。「あ! 来た! 逃げなきゃ!」
そこでようやくその場にいる全員が肝心なことを思い出す。グリュエーは救済機構に追われている身なのだ。それもどうやら魔導書に対するそれよりも強い執念で以って。
「早く! ユビスに乗って!」ユカリの呼びかけにユビスが応え、グリュエーとレモニカを乗せる。
通りに出ると街の中心の方からチェスタ率いるエーミの加護官がやって来るのが見えた。
「あたしらが時間稼ぎするよ。行きな」とジニが言い、エイカも残るようだった。
「義母さんたちは!?」
「あたしらは別の場所に別の幼児があるからね。あんたたちにはついていかないよ。ベルニージュ、ユカリをよろしくね!」
「え、あ、はい」思わぬ相手に託されてベルニージュは口籠った。
「ユカリ!」とエイカも、杖に乗って飛び去らんとするユカリに呼びかける。「北の国に飛んで行くんだから温い格好するんだよ!」
ユカリはただエイカと目を合わせてしかと頷いた。ソラマリアも杖に乗せ、残りの三人はユビスに跨り、北へと走る。瓦礫の降り注いだビアーミナ市の荒れ果てた通りを駆け抜けていく。
「チェスタ!」とユカリは叫ぶ。
ユカリの目は進行方向にチェスタの姿を捉えた。何がどうしたらジニとエイカとカーサを出し抜き、遥か行く先に現れることが出来るのか。今までならば自分の知らない高度な魔術なのだろうとユカリは考えるのを諦めていた。今では、深奥が利用されている魔術なのかもしれない、と推測できる。一方で縁をたどることが出来ないが故に、直接飛んで来ることも出来ない、ということになる。発見者も発明者も知らず知らず深奥が利用されている魔術は沢山あるのだろう。
ソラマリアと共にチェスタを食い止めようとユビスに先んじて飛ぶ。
「ユビス! 突っ切って!」
地上を矢のように駆けてゆくユビスはユカリへの信頼を示すように一つ嘶き、石畳を踏み砕く襲歩で駆け出す。
その時、ユカリたちが到達するよりも先にチェスタに襲い掛かる影があった。女性に見えるが兄だというライゼンの王子、不滅公ラーガだ。ユカリの見間違いでなければ、その剣技、体術、どれをとってもソラマリア以上のものだ。チェスタは魔術と剣術で対抗するが、目に見えて押され、道を開けさせられる。付かず離れずヘルヌスやマナセロが従い、大王国の戦士たちや屍使いたちも押し寄せる。
「記憶喪失の娘よ!」とラーガは戦いながら快活に叫ぶ。「妹をよろしく頼んだぞ!」
「ベ、ベルニージュです!」
またもや託されてしまったことにベルニージュは驚いたのだ、とユカリは思ったが、そうではないようだ。その声の震え、表情、色づく頬、どれをとってもベルニージュには珍しい照れをユカリは読み取った。ベルニージュが男と接する時の慌てようとはまた別物だ。
「ラーガさんって女の人ですよね?」とユカリはソラマリアに囁く。
「さあな。少なくとも私が初めてお目にかかった時からあの御姿だ」とソラマリアは答える。
いくつかの名だたる橋を渡ってビアーミナ市を出る頃、上空でユカリとソラマリアが見張る限りでは追ってきている者は誰もいなかった。
眼下の、ユビスの背のレモニカに呼びかけられる。ユカリが降下すると、二人きりで話がしたいと言うのでソラマリアと交代し、再び上空へ戻った。
レモニカが中々切り出さないので、ユカリは黙って時折振り返り、後方を見張る。
「誰かお探しなのですか?」とレモニカに尋ねられる。
「え? ……うん。まあ、そうかも。話したよね。ドークのこと」
「……ええ、何度か。克服者の中でも特別な存在だったとか」
「そうそう。クヴラフワの八つの呪い、全てを克服した特別な克服者なんだとか。つまりそれは全ての呪いと融合したってことなんだけど。そういえばベルとレモニカの向かったキールズ領とシュカー領はどんな呪いだったか聞いてないね」
「ええ、そうでしたね」
レモニカは口籠り、それ以上は何も言わない。
「……まあ、終わったことか。それはともかく最後に約束したんだよ。必ず解呪するってね。だから、まあ、自慢がてら別れの挨拶くらいしたかったんだけど……。もしかして話ってドークのこと?」
風を切りながら飛んで行く二人を長い沈黙が包む。ユカリは答えを待つべきか、他の話に切り替えるべきか思い悩み、そもそもレモニカの方に話したいことがあったのだと思い出すと、やはり沈黙して待つ。ようやく意を決したように切り出すレモニカの話は、しかしドークとは何の関係もなかった。
「わたくし、実は、わたくしもハーミュラーと同じく半神なのです!」
「えええ!」思いもよらないレモニカの告白にユカリは混乱し、思わず振り返ろうとするが堪える。「え、それって、ど、ええ!?」
やんごとない御方、どころではなかった。
「わたくしもお兄さまに教わったばかりなのですが、わたくしの母ヴェガネラは神なのだとか。つまりわたくしやお兄さまは半神だということになります」
「雷神ヴェガネラ!? 知ってるよ! 雷と嵐の司、神々の武器庫番、涙を流す者と気高き者の長たる女神、十二主神の一柱だよね。神話もいくつか知ってる」
「ご存じでしたのね。わたくしも神話には詳しいつもりでしたが……」
その部分だけ知識が抜け落ちていたのだとしたら、それは教育者の意図的なものだ。ユカリはユビスに跨るソラマリアの方を一瞥する。
「それじゃあ、何か、その、すごいんじゃない?」ユカリは上手く言葉が出てこない。
「今のところ、わたくし自身は何もすごくはありませんわ。お兄さまと違って優れた力もありませんし。ただ、母に与えられたという加護はとても強力なもののようです」
「加護? どういうものなの?」
再びレモニカは沈黙に沈むが先ほどよりは早く口を開く。
「……簡単に言えば、まず死なないそうです」
「え、すご……、ああ、だから不滅公。あれ? いや、でもそれって」ユカリは北に広がる青空をはっと見上げる。「それじゃあ、レモニカのお姉さん、リューデシア、聖女アルメノンは、聖女アルメノンも……」
「それが問題なのですわ」とレモニカは懸念を告げる。