「何もこんなに急に…」
「はい。本当に、申し訳ありません」
「いや…そうじゃなくて、謝るのは俺の方だ」
少し早い時間だったけど、ケンゾーはすぐに着信を繋いでくれた。
話があるから時間を作ってほしいと言うと、すぐに行くからと…銀座店の事務所で落ち合うことになった。
私はケンゾーに退職願を差し出した。
本当に申し訳ない事をした、と…ケンゾーは何度も頭を下げる。
昨日母を店に招き入れ、レストランに連れて行ったのは、完全なミスだったと言う。
「いいえ、母のことは話していませんでしたし、良かれと思っての行動だとわかっています。…だからもう、頭を上げてください」
母に居場所を知られた以上、この店で働き続ける選択肢はない。
また…来るかもしれない。
今度は介護士さんの目を盗んで1人で。
それが恐ろしくて…落ち着いて仕事ができるとは思えなかった。
「ここを辞めて、どうするつもり?」
「それは…」
「美亜ほどの腕があるなら、いいところを紹介できる。…それで少し状況が落ち着いたらまた…」
戻っておいで、と言われるのを、私は「ありがとうございます」という感謝の言葉で止めた。
「本当に急で申し訳ありません。状況が落ち着いたら、真っ先に会いたい人がいます」
「それはもしかしたら、嶽丸くん?」
「…はい。私は嶽丸を大切に思ってます」
これですべて察してくれるだろう。
しばらく私と目を合わせたケンゾーは、ふと口元に笑みを浮かべて「フラれたな」と言う。
「これからどこに行くかは…?」
「…すいません」
母が再びここに来る可能性がある以上、教えるわけにはいかなかった。
ケンゾーには、海外出店と同時に複数店舗の経営を任せるとも言われている。
求愛を断る以上、ここにいるわけにはいかないと、それは…前から考えていたことだ。
「慎吾が、辞めたばかりだというのになぁ…」
ヘアショーの直前に、和臣の代わりに戻ってきた慎吾先輩。
実はつい先週、退職したばかりだった。
2人続けて退職することに、ケンゾーは困る…というより、寂しそう。
この人は、そういうところのある人だ。
仕事には厳しいけど、どこか兄貴っぽくて、都会的なセンスをまといながら…温かい。
どこまで使い物になるかわからない私を過大評価して、これまでいろんな経験をさせてくれた。
ケンゾーが望むような関係にはなれなかったけど、私にとって、恩人であることに変わりはない。
「これまで、本当にありがとうございました…」
思わず目元が潤んだのを見られて…ケンゾーに抱き寄せられてしまう。
「…お前の幸せを願ってるけど…もし無理そうだったら、俺のところに来い。…いいな?」
言いながらため息をついたところを見ると、自分でも未練がましいと思っているのかもしれない。
「…わかりました」
私は名残惜しそうなケンゾーの腕を解き、慣れ親しんだ銀座店を後にした。
…もしも。
母に会ってしまったら。
母に会って、恐怖を感じたら。
こうしよう…って決めていたことがある。
それは…大切な人たちを、万が一にも傷つけないため、少し距離を置くということ。
私の大切な人なら消えて…と言った、母の言葉が忘れられない。
母は相変わらず、私に憎悪を向け続けているとわかった。
それは、過去に弟を交通事故に遭わせたこと以上に、父が自分の前から去ったことも私のせいだと思ってるから。
悪いのは私。
すべて私。
何もかもを私のせいにしないと、母は生きてすらいけないのかもしれない。
まさか、勤め先を知られ、嶽丸の顔を見られるとは…完全に想定外だった。
ギリギリと手の甲を引っかかれ、薄く傷跡になったのを見て思う。
こんな痛みや傷を、私の大切な人に負わせたくない。
例えそれがわずかなものでも、私は嫌だ。
母への恐怖は、私一人で背負っていけばいい。
だから私は、今朝そっと嶽丸の腕から離れた。
全部話して納得してもらおうと思わなかったわけじゃないけど…母への恐怖の方が勝った。
離れなきゃ。
嶽丸を大切に思うなら、母に傷つけられる前に、離れなきゃ。
目が覚めて…私がいないことに気づいて、嶽丸は驚いたかな。
幸いにもマンションは知られていないから、母が急に訪れる心配はない。
それでも私は、嶽丸の顔を母が見たことが不安で、一時的にマンションを離れることにした。
私の恐怖は…重い。
…私と一緒にいて、大切な人が傷つけられるんじゃないか、そんな光景を見てしまうんじゃないかという恐怖。
目の前で交通事故に遭った弟が目に浮かんで、私はメッセージ1つでマンションを出てしまったんだ。
その時の私には、嶽丸の気持ちを考える余裕もなかったんだと思う。
本当にごめん。
…嶽丸
「待ってたよ。美亜」
銀座店から持ってきた仕事道具を手に、電車を乗り継いで到着したのは、神奈川の海沿いの街。
「すいません…お世話になります」
穏やかな街で美容室をオープンさせたのは、慎吾先輩。
ここなら、母に見つかる可能性はゼロに近い。
私はここで、一時的に母から隠れるつもりだった。