巨大なスタジアムの前に立っていた。
とうに廃墟と化しているらしく、壁面の化粧レンガはいたるところで剥がれ落ち、露わになったコンクリートに無数の亀裂が走っているのが雲間から射す月明かりで見て取れる。
画面の一部を包んでいる蔦が風に震えて、乾いた音を立てていた。夜そのものが囁いているようだ。
ぽっかりと口を開けた5番ゲート。左手の弓矢を持ち直し、そこから中へと入っていった。すぐ右手に階段が延びているので、迷いなく上がる。
硬い靴音が寒々とした空間に響き、背中に回した矢筒が小さく鳴った。何本もの矢がそこに収められているのか知らないが、残りわずからしい。
手にしているのは竹製の和弓。よく使い込まれていて傷みが目立ち、鹿革を張った握りの部分は手垢で光っていた。長さはせいぜい一メートルほどなのでおもちゃでしかないようだが、心強い武器になるのだ。
上り切ると、仄暗い廊下。どこにも光源がないのに、ぼんやりと周囲が見えている。立ち止まって耳を澄ましたが、何の音も聞こえてこない。恐ろしいまでの静寂。
スタンドへの出入口の向こうに夜空があった。そこからの光に導かれて進む。ひと足ごとに視界が開けていき、やがて場内の全景が目に飛び込んでくる。
眼下に広がっているのは陸上競技用のトラックではなく、芝生に敷き詰めたピッチでもなければ野球のグラウンドでもない。勾配がきついすり鉢状のスタンドに囲まれているのは、鬱蒼たる森だった。降り注ぐ月光も木立の隙間に分け入ることができず、見渡す限り黒々としている。せいぜいビルの二階分ほどしか階段を上っていないのに地面がやけに遠くに見えるのは、何メートルも掘り下げてあるのだろう。
四方を見渡す。観客席も老朽化しどれも背もたれがひび割れ、赤やら青やらの塗装はすっかり褐色していた。放置されてからどれだけの歳月が流れたのか、見当がつかない。
ーー来たことがある。
右手に聳える照明塔を見た時、不意に記憶が甦った。その鉄骨の組み方に見覚えがある。無気味に黒く、超現実的な森も即知のものだ。と同時に、自分が今ここに立っている理由もはっきり理解した。
ーーここは狩場だ。
ーー自分は狩人だ。
ーーだから弓を携えている。
そして、狩るべき獲物は目の前の森に潜んでいる。広くはあるけれど、スタンドで包囲されている森のどこかに息を殺して隠れている。
ーーそいつを見つけて仕留める。
足元に気をつけながら急な階段を下って行った。きざはしの段差は、五十センチ近くもあるだろうか。とてもではないが両足を交互に出すことは出来ず、常に左足を先にして一段ずつ慎重に下りる。奈落まで下降しているのかと思うほど、地面が遠かった。
やっとのことで大地に立つと、休憩もせず森へと続く道に踏み入った。気分が高揚して、胸の鼓動が感じられるようになる。
今夜の獲物が何なのかは知らないが、出合えばそれと分かる。そういうハンティングなのだ。
ゴツゴツした太い木の根が張り出していて、足場は良くない。低く伸びた枝が行く手を阻んでいる箇所もある。それでも明かりなしに歩けることに、感謝しなくてはならないだろう。上から見た時はあんなに暗かったのに、森に入ってしまうと山は存外に薄く、十メートルほど先まで見通せる。
右手前方から、囁くような細い音が聞こえてきた。ろくに起伏のない平坦な森なのに、いずこからかいずこへと小川が流れているようだ。そのせせらぎもまた、耳に覚えがあるものだった。
頭上を振り仰げば、いつしか雲はなくなり美しいばかりの星空。刃のごとく鋭いこずえが、中天の満月を縦に引き裂いている。見つめていると体温を奪われるような、冷え冷えとした蒼い月だった。
これだけの広さがある森で、どこにいるかも知らない獲物を探し出せるのか? そんな懸念を打ち消したのは、湿った地面に残る足跡だった。輪郭がぼやけて男のものか女のものかも定かではないが、ひと組の靴跡が先へ先へと続いている。何と好都合な。こいつを見失わずにたどっていけば、自然と目指す場所に着く。
奥へ奥へと歩いていくうちに、場違いなものに遭遇した。五メートルほど前方の右手から白い馬が躍り出たかと思うと、音もなく左の木立に消えた。眩しいほど純白の馬で、見事なたてがみをなびかせていた。突然のことに度肝を抜かれてしまう。
ホウ。と、樹上でフクロウが啼いた。ホウ、ホウ。
それを耳にした途端に、ようやく自分が夢を見ていることを自覚する。いつもフクロウの声が告げてくれるのだ。
肉体はベッドの上にあり、何の危険もなく眠っている。これはただの夢。打ち捨てられたスタジアムの中に得体の知れない森があっても、白馬がいきなり目の前を横切っても不思議はない。
さっきのあれは……そう、ベッドに入るまでワインを飲みつつ、テレビで動物番組を観ていた。そこに登場した馬ではないか。堂々とした走りっぷりが印象的だった。
ーーここからは明晰夢か。よし。安心して、せいぜい楽しむとしよう。
だが、あまりにも悠長にかまえてもいられない。明晰夢は、そう長く続かないもの。早くことを済ませなければ、楽しむ前に無粋な目覚めが訪れる。
足跡をたどっていくと、木立の間に切妻屋根の二階建ての家が見えてきた。テレビのコマーシャルによく登場するタイプの住宅だ。薄闇のせいで定かではないが、外壁は明るい色で塗られているようだ。以前に夢で森を彷徨った時にはなかった。
足跡がそちらに向かっていたので、考えもなく近づいたことが間違いだった。二階の大きな窓が勢いよく開くなり、風を切って何かが飛んできた。
傍らの木の幹に、カッと矢が刺さる。棒立ちになっていると、窓に現れた影はさらなる矢を放とうとしていた。慌てて身を隠した木に、狙い違わず二の矢が命中する。
狩られるのを待つだけの、大人しい獲物ではなかった。予期せぬ反撃に狼狽している間、影は弓を手にしたまま窓から飛び出す。猿よりも軽やかに地上へ着地するではないか。そのシルエットからすると、どうやら女らしい。全身が総毛立った。
来た方向へ、一目散に駆け出した。何度も脚が絡まりそうになり、恐怖が心臓を鷲掴みにする。道に横たわった倒木を乗り越える際振り返ってみたら、女はみるみる接近してきた。自分の二倍は速く走れるようだ。
ーー待ち伏せされていたんだ。こっちが狩られる方だったのか。
とてもではないが、逃げられない。絶望しながら考えた。
ーー迎え撃とう。走りながらでは、矢を弓につがえることもできない。背中を見せたりせず、あいつが三の矢を放てないうちに射てしまおう。
正しい判断に思えたが、失敗は許されない。一度打ち損じれば相手は自分の元までやってきてしまうから、チャンスは一回だけ。
矢筒から素早く一本抜き、狙いを定める。女は長い髪を振り乱しながら、射程距離に入りつつあった。こちらが弓を構えているのが見えているだろうに、怯む気配は微塵もない。
ーーはずれても大丈夫。取って食われたりはしない。これは夢なんだから。
そうだ、夢だったではないか。緊張が緩んだところで、異音がけたたましく割り込んできた。神経に障るピピピという断続的な電子音。
右腕を伸ばし、枕元の目覚まし時計を探り当ててアラームを止める。ゆっくりと両目を開け、悪夢の余韻を振り払って気持ちが鎮まるのを待った。
とうに慣れっこになっているはずなのに、つくづく因果だと我が身を呪わずにはいられない。
世の人々は眠りの中で恋しい人と語り合ったり、死に別れた懐かしい人に再会したり、色々と楽しい思いをするのに。
生まれてこの方、彼は悪夢しか見たことがなかった。