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15時13分。『のぞみ20号』は、定刻ちょうどに東京駅の18番線に滑り込んだ。いつも通りの正確な進行で、しばしば締切を守れないどこかの作家は模範としなければならない。
大阪よりは幾分ましではあるが、プラットホームに立つと東京も湿度が高い。鬱陶しい梅雨の接近を告げるかのように。今日を入れて、五月も余すところあと五日だ。
予報によると今年の六月は平年より多雨で、集中豪雨への注意を気象庁は喚起していた。私が住んでいるマンションは大阪市内でも高台にあり、近くに河川がないので心配はいらない。しかしどこかの誰かは危険に晒される。テレビのトップニュースになるような台風や荒天ばかりの恐ろしいものではなく、激しい雨が半日降っただけでも裏山が崩れたり用水路にうっかり落ちて流されたりして、命を落とす人がいる。
雨が降ると、どこかで人が死ぬ。
そんな言葉を聞いて、軽いショックを受けたことがあった。たかが雨と侮ってはならない。
エスカレーターを降り、改札口に向かいかけたところで「んっ?」と声が出た。
向こうからやってくる白いジャケットの男は、友人の日向ツボミではないか。東京駅で知人にばったり会うことは何度か経験していたが、彼と出くわしたのは初めてだ。視線があった。
「出張か?」
彼の方から尋ねてくる。
「出版社で対談するんや。お前の方はひと仕事終えて、これから京都に帰るみたいやな。旅行鞄の大きさからすると、一泊しただけか。最初から一泊の予定だったみたいやから、警視庁に呼ばれて難事件の捜査に来たわけやない。いつものジャケットで特にめかし込んでないから、遠距離恋愛の彼女と会うた帰りでもない。ディズニーランドで遊んできたにしては土産グッズを持っていない、ということは学会か?」
「探偵みたいにあれこれ推理するほどのことでもないだろう。昔の事件の関係者に会って話を聞いてきたのさ。尋ねた先が茨城県のはずれだったので、泊まりがけでな。すまん、ノア。急いでるんだ。15時20分の『のぞみ』に乗りたい」
「おっと、それは悪かった」
半身になって、さっさと行くよう促した。
「またな」
小走りになり、背中を向けたままちょっと手を振る友人を見送る。少しだけ立ち話をしようとしたのだが、そんなに帰路を急いでいたのか。
今日は金曜日だから授業があってもおかしくないものの、今から慌てて大学に戻ったところで間に合うとは思えないのにな。そう考えていたら、察しがついた。恐らく今や絶滅寸前となった喫煙車があり、彼はそれを調べた上で指定席を確保しているのだろう。それしきのことで必死になりやがって。
彼に聞いてみたいことがあった。ここで顔を合わせたのは具合が良かったのだが、仕方ない。大阪に戻ってから、近いうちに電話してみることにしよう。
私は改札口を抜けると、地下道をてくてく歩いて大手町駅に向かい三田線に乗った。一駅で神保町。地上に出て徒歩三分ほどで白釉社に着く。本人の意識としてはまだ駆け出しに近いミステリー作家・葛城希空にとって、最大のクライアントだ。ビルの前で腕時計を見て、対談の開始時間までまだ二十分あるのを確かめた。
受付で名前と訪問先を伝えると、すかさず編集部に内線電話をかけてくれて「少々お待ちください。すぐ参りますので」と言う。エントランスの隅のソファに掛け、担当編集者が迎えに来てくれるのを待った。
壁には、白釉社の本が原作となったテレビドラマや映画のポスターがずらりと貼ってある。景気のいいことだ。一際目立っているのは、ハリウッドでの映画化が決まった『ナイトメア』。その原作者は福内智也。これから私が対談するお相手である。
スタイリッシュなポスターだ。森の奥から輪郭がぶよぶよとした蛍光色の怪物が這い出てこようとしている。手前には小ぶりの弓に矢をつがえた手があり、これを見ただけでは射手が何者であるか分からない。デザインが良い上に、〈あなたに悪夢を〉というコピーが誇らしげだ。すでにクランクアップしていて、この秋に全米と日本での同時公開が予定されている。
自分とは全く関係ないにせよ、日本のエンターテイメント小説が世界規模で評価されるのは喜ばしい。言葉の厚い壁さえなければ、とうにそうなっていたはずのことが近年ようやく実現しつつある。この国は大きな問題をたくさん抱えているし、国民性もひたすら美しいだけではない。面白い国だと私は思っている。その面白さがもっと広まって欲しい。
「お待たせしました、葛城さん」
デビュー作から私の面倒を見てくれているパートナー、片岡勝がやってきた。会うのは彼が去年の暮れに大阪まで来てくれて、二人きりの忘年会を催して以来だ。
「わざわざ来社いただいて、すみませんね。京都あたりでセッティング出来れば良かったんですけど、福内さんがこっちで新作の追い込みに入っているもので」
恐縮したふうに言うが、かまいはしない。皮肉ではなく、忙しい作家に合わせるのが合理的だ。福内は京都府下の亀岡市内に構えているが、東京にもマンションを持っており、現在はそこで執筆に没頭しているらしい。
「東京で担当者の監視下に置かれながら、ラストスパートをかけているんですね?」
そう言うと、片岡はぎょろりと目を剥く。感情が高ぶったわけではなく、力を入れて喋る時の癖だ。
「監視なんかしていませんよ。そんなことをしなくても福内さんは期限内にきっちりと仕事を上げる人です。その時々の気分で、こっちで書いたりあっちで書いたりしているだけですよ」
「だいぶ鄙びたところにお住まいなんでしょう?せやったら、そっちで書いた方が無用の勧誘がなくて捗ると思うんやけどなぁ」
「そんなものですか。じゃあ、葛城さん。鄙びたところに引っ越してみません?人恋しくなりかけたら、僕が都会の香りと共に遊びに行きますから。漁船をチャーターして」
無人島に追いやられては敵わないから、新幹線だけでなく福内智也先生をよく見習って締切の厳重に努めたい。