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作者の西条景哉です。この度は「俺の正義、誰かの不幸。」をお読み頂き、ありがとうございました。 いかがでしたでしょうか。きっと、残酷な描写や、後味の悪い結末にモヤモヤした気持ちになった方が多いかと思います。
しかし、そのモヤモヤした気持ちこそが、私が皆様にお届けしたかったものです。
こいつは何を言っているんだ、と思ったことでしょう。ご安心ください。しっかり解説いたします。
この作品は、「己の正義を貫くことの難しさ」「誰かの不幸の上に成り立つ正義」「救済の多様性」をテーマに書きました。
コバルトが人体実験の目的を知り、葛藤するシーン。ここでは、「大勢のために少数を犠牲にしていいのか」という、「誰かの不幸の上に成り立つ正義」が顕著に描かれています。そこで、コバルトは「己の正義を貫くことの難しさ」を強く感じていました。
コバルトだけではありません。カリーナもまた、この実験が「誰かの不幸の上に成り立つ正義」であることを指摘し、ストロンと衝突しましたが、暴力という圧倒的な力の前では虚しい結果に終わりました。これもまた、「己の正義を貫くことの難しさ」の現れです。
中には、セレンやクロム、ストロンというように、自分の正義を貫こうとしたキャラクターもいました。しかし、ストロン博士は周囲を顧みなかった結果、家族も、研究の成果も全てを失いました。
クロムも破滅的で闇々しい正義を貫いた結果、自身の復讐計画の一環という形で死を迎えます。
セレンもまた、自身の中にクロムと同じような冷たさが潜んでいること、「割り切る」と「切り捨てる」は違うことに気が付かなければ、悲劇的な末路を辿っていたかもしれません。
このように、正義を貫くことは、行き過ぎると身を滅ぼす可能性もあります。これも「己の正義を貫くことの難しさ」のうちの一つです。
「救済の多様性」の例としては、 ダグラス夫妻の喧嘩のシーンが分かりやすいと思います。
ストロン博士は、カルシアの病を治すことが彼女に取っての「救い」であると信じ、その手段を探し求めることこそが「正義」であると考えていました。一方で、カリーナは、家族と過ごす穏やかな時間と、「多くの犠牲の上に成り立つ命」を背負わせないことこそがカルシアに取っての「救い」であると考え、夫を止めます。
結局、エピローグでストロンは逮捕され、カルシアは亡くなってしまったため、どちらが彼女に取って本当の「救い」になり得たかは分からず仕舞いでしたが。
そして、多くの方に最もインパクトを残したのは、クロムの「救済」でしょう。彼は、自ら復讐計画の一環として、死を選びます。彼に取って、それは唯一の生き甲斐であり、自身の呪われた生から解放されるための究極の「救済」でした。しかし、コバルトは彼の死を悲劇的な結末として捉え、彼の命を救えなかったことを深く嘆きます。
一方で、セレンは違いました。彼はクロムの孤独と絶望を、コバルトとは違った形で理解していました。クロムに取って、あの死こそが唯一の「救済」であったことを、セレンは言葉にせずとも察していたのです。だからこそ、彼はコバルトと共にクロムを火の中から連れ出そうとせず、彼の選択を見送ることが出来たのです。
同じ「死」という出来事も、コバルトのように「救うべき命」を失った悲劇と捉える者もいれば、セレンのように「本人が望んだこと」として受け入れる者もいる。そして、最も重要なのは、当事者であるクロム自身に取っては、それが待ち望んだ「救済」であったという事実です。
このように、「救済」とは、その定義も形も、そしてそれを受け止める側の感情も、多様であり、必ずしも他者と共有出来るものではありません。
もし、誰かと衝突した時。今の自分は、周りが見えなくなっているなと感じた時。この作品は、そんな時、一度冷静になるきっかけを与えられるようなものになれば、と思って書きました。
何度も読み返したくなるような作品ではないと思いますが、気を落ち着かせたい時に、そっと開いて頂けると嬉しいです。