「ごめんね、お待たせ」
「いえ」
そんなに待ったわけではありませんと、笑顔を向ける。
ここは都内にあるフレンチレストラン。
一見お店とは思えないような隠れ家的な場所で、事前に教えられていた私も入るのに怯んでしまった。
「ここ、初めてだよね?」
「ええ」
銀行員時代には友人や職場の仲間と食べ歩きすることもあったけれど、さすがにこんな高そうなお店には来たことがない。
「荒屋さんはよく来るんですか?」
さっき入って来たときのお店の人の対応から見て、初めてではなさそう。
もしかして常連さんなのかしら。
「ここは静かだし、料理もうまいしね、仕事で時々使わせてもらっている」
「へえー」
営業って、こんな高級なお店にも行くのね。
「仕事だよ、仕事」
言い訳気味に言う荒屋さん。
「そうですか」
こんな素敵なお店に来て仕事なんて、もったいないな。
「とりあえず乾杯しようか?」
「ええ」
目の前に置かれたワイングラスを静かに合わせた。
深い紫色の液体を口に入れ、一口飲み込んでその刺激的な舌触りと鼻に抜ける芳醇な香りに思わず頬が緩む。
「美味しい」
無意識に口を出た。
***
週末金曜日の夜。
いつもだったら登生にご飯を食べさせて、お風呂に入れている時間。
「たまには息抜きしておいで」と言ってくれた淳之介さんに登生を預けて、私は今荒屋さんと2人で食事に来ている。
「まさか璃子ちゃんが来てくれるとは思わなかったよ」
「そうですか?」
麗華が中野商事に勤めるようになって、荒屋さんと話す機会が増えた。
特に、先日麗華との喧嘩を仲裁されてからは態度にも語り口にも遠慮がなくなった気がする。
そんな中、「璃子ちゃん、よかったら今度ご飯に行こうよ」と誘われたのが1週間前。登生のこともあり少し迷ったけれど、結局「行きます」と返事をした。
「それで、今日はなぜ僕の誘いに乗ってくれたの?」
自分でしつこく誘っておいて、なぜ来たのかなんて変な質問。
でも確かに、普段の私からすると意外な行動に見えるのかもしれない。
「来ない方がよかったですか?」
「まさかぁ」
大げさに驚いて見せる素振りが、いかにも営業さん。
この人は淳之介さん以上に本心が見えない。
表面上笑っているのに冷たい目をしていたり、『かわいいね』『綺麗だね』と言う口癖のような言葉もすごく嘘っぽい。
だからこそ直接会って、話してみたかった。
私にはどうしても荒屋さんに聞きたいことがあるから。
***
「どう、美味しいだろ?」
「ええ」
確かに、荒屋さんが美味しいっていうのが納得のお味。
一つ一つの料理に手が込んでいて、盛り付けもきれいで見ているだけで楽しい。
「よかったら今度は、おすすめのスペイン料理店に案内するよ」
「はあ」
ためらいが声に出た。
「どうしたの?彼氏が出してはくれないのかい?」
「え?」
驚いてポカンと口を開けたまま固まった私を、ニヤリと見る荒屋さん。
「璃子ちゃんを見ていればわかるよ。誰かと暮らしてるんだなってね」
淳之介さんのことも登生のことも隠しているつもりだった。まさか荒屋さんに気づかれていたなんて。
荒屋さんの洞察力がすごいのか、私の詰めが甘いのか、どちらにしてもこれ以上誤魔化しはきかないようだ。
フゥー。
グラスを置き、大きく息を吐いて、私は荒屋さんに視線を向ける
「実は荒屋さんに聞きたいことがあって、私は今日ここに来ました」
「うん」
まるで予想していたかのような静かな反応。
荒屋さんは表情一つ変えることなく、私を見つめている。
***
「私、八島璃子と言います」
今まではフルネームを名乗る機会がなかった。
だから、荒屋さんも初めて聞いたはず。そして、八島って苗字もそんなに多い名前ではない。
「もしかして」
「はい、八島茉子の妹です」
ずっと隠していたのに。とうとう言ってしまった。
「そうか、葬儀の時に会った?」
「はい」
「髪が短くなったからかな、印象が違ってわからなかったよ」
そうだろうと思う。
もちろんそう仕向けたのは私自身。
「それで、今ここで名乗るからには話があるんだろ?」
「ええ」
私は今、登生の父親を捜している。
姉の暮らしていた周辺に住み、関わった人たちを観察しながら、手がかりを集めていた。
そんな中で一番可能性が高いのが荒屋さんだと思う。
少なくとも、姉の側にいて親しくしていた同期で友人。恋人関係にあったかは定かでないけれど、身近にいた人に違いないと思っている。
だから、
「荒屋さんが、登生の父親ですか?」
私は真正面から質問をぶつけた。
***
「残念ながら違うよ」
いつもの軽薄さは感じられない、まじめな声。
その顔に、少しだけ悔しさがにじんで見える。
「本当ですか?」
「ああ」
ニコリともしない素の表情が、嘘ではないと感じさせる。
やはり、違ったか。
「あの子の姿形を見れば、僕の子じゃないってわかるはずだろ?」
確かに。
姉と荒屋さんの間に登生が生まれれば、それはそれで遺伝子のかけ違いにしか見えない。普通に考えればありえないことだと思う。
じゃあ、
「あの子は、誰の子ですか?」
「それは・・・」
荒屋さんは口ごもってしまった。
荒屋さんに聞けば何かわかるかもしれない。。
私はずっと、そう思っていた。
だって・・・
あの日。
突然の交通事故で亡くなった姉の葬儀に集まった参列者の中に荒屋さんがいた。
「会社の同期で友人でした」と名乗られ、初めは気にもしていなかった。
けれど葬儀の時、姉の遺影に手を合わせ静かに目を閉じた荒屋さんの横顔に涙が一筋流れるのを私は見てしまった。
参列者の中で誰よりも姉の死を悼み、悲しんでくれている人。
この時の私には、そう見えた。
***
手の込んだフランス料理を堪能した後デザートとコーヒーが出されたタイミングで、
「僕と八島茉子は会社の同期だったんだ」
荒屋さんは話し始めた。
「茉子はとっても聡明で、優秀な女性だったよ」
懐かしそうに、どこか遠くを見ている荒屋さん。
私はただ頷きながら、静かに耳を傾けた。
いくら実力社会と言っても、日本の企業は今だに男性社会。
その中でも男女平等の進んだ中野商事に入った姉は、同期の中でも目立つ存在だったらしい。
「ちっちゃいくせにパワフルで、自分が違うと思えばどんな奴にでも抗議する。意地っ張りで気が強くて、思い込んだらまっしぐら。まるで思春期の高校生のようだったな」
ハハハと笑ってみせる荒屋さん。
フフフ。
わかる気がする。
やるならとことん。負けを認めて逃げ出すなんてもってのほかで、こうと決めたら何度でも何度でも立ち向かって行くのが姉のイメージ。姉ほど強い精神力を持った人を私は知らない。
「俺も、同期達も、あいつの頑張りに触発されていた。茉子がこんなに頑張っているんだから俺たちもって、みんな思っていた」
「私も、同じです」
実家は裕福な家ではなかった。
貧しかったわけでもないけれど、東京の大学に行くには自分で奨学金を借りるのが条件。
そこまでしなくても、地元の短大に行くことも、高校を出て就職することもできるのにと周囲には言われた。
けれど、1人で頑張る姉を見て、私も同じように生きたいと東京の大学に進んだ。
「仲のいい姉妹だったんだな」
「ええ」
私は姉が大好きだった。
***
「でも、2年目になって少しづつ仕事を覚えてきたころ、先輩の数人が茉子のことをいじめるようになった」
「え?」
「きっと、新人のくせに結果を出す茉子が目障りだったんだろうな。誰からともなく茉子を避ける空気が広がっていった」
「ヒドイ」
「そうだな。俺もそう思った。だから、上に言ってやろうかって何度も言ったんだが、茉子は拒み続けたんだ」
「どうして?」
「『ずるいことをされたからって、自分もずるい手を使えば、相手と同じになるじゃない』あいつはそう言って笑っていた」
お姉ちゃんらしいな。
「で、どうなったんですか?」
聞くのが怖いけれど、その先が気になって仕方がない。
「過労で倒れて、見かねた上司がハワイ支社への出向を提案したんだ」
「だから、ハワイ」
それまで海外なんて行ったこともなかったのに、なぜハワイなんだろうと気になったけれど、転勤で行ったんだ。
「ただ、日本では企画室に所属していた茉子が、向こうでは秘書室への配属だった。わかっているのはそれだけ。向こうで、具体的にどんな仕事をしていたのかはわからない」
「それはどういう」
意味だろう。
***
「俺もハワイに伝手やコネがある訳じゃないが、一応知り合いに聞いてはみたんだ」
「それで?」
「八島茉子が秘書室に所属していたのは間違いない。現地の支社長秘書の1人だったらしいが、会社ではあまり顔を見たことがないって言っていた」
会社で顔を見ないって・・・どういうことだろう。
でもずっと中野商事に席があるってことは、勤務したってことよね。
「向こうの人は時間の観念も独特でのんびりゆったりしているから、ハワイ特有の勤務スタイルがあったのかもしれない」
「そう、ですね」
「茉子をハワイに行かせた当時の上司も、向こうで少し肩の力を抜いてゆっくりしろって言いたかったんだと思うよ」
なるほど。
お姉ちゃんはいい上司に恵まれたのね。
「当時の茉子がどんな暮らしをしていたのかはわからないけれど、『ハワイで過ごした時間が人生で一番楽しかった』って言っていたから、幸せに過ごしたんだろう」
「そう」
少しだけホッとした。
ハワイなんて異国の地にいた姉のことを心配していたけれど、ちゃんと幸せだったんだ。
「そして、次に俺が茉子と会ったのは1年半後。その時には赤ん坊を連れていて驚いた」
それが、登生。
やはり登生はハワイで生まれたんだ。
***
「荒屋さんは、登生の父親について知らないんですね?」
「ああ」
いわくつきでハワイへ出向し1年半後に赤ん坊を連れて帰ってきた姉を、みんな不思議に思ったことだろう。
それに、出産となれば必ず仕事を休まなければならない期間が発生する。その間姉はどうやって過ごしたんだろうか?
「登生くんのあの外見を見れば、向こうで知り合った現地の男性との間に生まれたって思うのが自然だよな」
「そう、ですね」
あの髪も瞳の色も違和感とまではいわないけれど、日本人にしては個性的。
「俺も、子供の父親は誰なんだって、茉子に聞いてみたことがある」
「で、姉は何て?」
私は反射的に身を乗り出した。
「向こうで知り合った男性で、事情があって別れたとしか教えてくれなかった」
「そう」
もし本当に愛し合っていたとしたら、いくら事情があったにしても何の連絡もなしっておかしいと思う。
姉が死んだことも調べればわかるはずだし、一人残された登生を心配するのが人として当然のはず。
「気になるんなら、ハワイの支社に探りを入れてみようか?」
「いいんですか?」
「ああ、俺も気にはなっていたんだ。さすがに茉子のプライベートを詮索するみたいでためらっていたんだが、璃子ちゃんと登生くんの為なら調べてみるよ」
「ありがとうございます」
これで何か情報が手に入るかもしれない。
この時の私は単純にそう思っていた。
***
荒屋さんと食事をしマンションに帰ったのは午後10時で、すでに登生は眠っている時間。
「おかえり」
「ただいま」
今日、私はただ「姉の友人に会ってくる」とだけ伝えていた。
淳之介さんからも詳しく聞かれることがなかったため、荒屋さんと会うとは言わなかった。
「子守をさせてごめんなさい」
ただでさえ仕事で疲れているのに、申し訳ない。
「いいんだよ、とっても楽しかったから」
本当にうれしそうな表情。
その顔を見て、少しだけ嫌な予感がした。
「登生、ちゃんとご飯を食べた?」
「・・・いつもの半分」
やっぱり。
「おやつをたくさん食べたんでしょ?」
「まあ、そうだな」
そんな事だろうと思っていた。
本当にいけないことをすれば淳之介さんは厳しく叱るけれど、普段の細かなことにはあまり口を出さないから、その分私が口うるさくなってしまう。その私がいないとなれば、登生はきっと羽を伸ばすはず。
「お風呂は?」
「入った」
「歯磨きは?」
「させた」
じゃあいいか。
きっと登生も今日は楽しかったはず。たまにはそんな日があってもいいのかもしれない。
「いっぱい散らかしたけれど、自分でおもちゃも片づけて眠ったんだ。それで許してやれよ?」
「そうね」
子守りをお願いした手前文句も言いにくいし、何よりも喜んでいる登生の顔が思い浮かんで黙るしかなかった。
***
「それで、何かわかったの?」
お風呂に入り、着替えもして、少し飲もうかって淳之介さんがワインを開けた。
「やはりハワイで出産したってことと、当時は中野商事のハワイ支社に勤務していたらしいってこと、それから・・・」
「それから?」
「姉は相手の男性が好きだったみたいです」
「ふーん」
荒屋さんの話を聞いて、その点が一番うれしかった。
「ハワイ支社に勤務していたんなら、現地に探りを入れてみようか?」
フフフ。
荒屋さんと同じことを言っている。
「いえ、それは荒屋さんがしてくれるらしいから」
「え?今日って、もしかして荒屋と一緒だったの?」
「あぁ、はい」
嘘をつく必要もないだろうと、素直に認めた。
それから淳之介さんは一気に不機嫌になってしまった。
***
「荒屋と会うなら先に言えよ」
いつもよりも乱暴に聞こえる淳之介さんの言葉。
それがワインのせいなのか、私の態度がそうさせたのかはわからない。
「私はただ姉の様子を聞きたかっただけで・・・」
相手が荒屋さんだから会ったわけではなく、お姉ちゃんの友人が荒屋さんだっただけ。そこに深い意図はない。
「言ってくれれば、俺も一緒に行ったのに」
「はあ?」
一緒に行って、何て言うつもりだろうか?
心配でついてきたっていえば、同居までバレてしまうのに、そんなことできる訳ない。
「楽しかった?」
「だから、私たちはそういう目的で会ったわけではなくて、純粋に姉の消息が知りたかったの」
「でも楽しかったんだろ?」
イラッ。
「ええ、料理もおいしくて、お店の雰囲気もすてきでした」
強い口調で、言い返してしまった。
「俺は登生と2人で買ってきた弁当だったのに」
「それは・・・」
その後もブツブツと文句を言い続ける淳之介さんは、一人でワインのボトルをほぼ空けてしまった。
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