記者会見を終えて会社に戻った吾妻勇太は、そのまま全社員に向けた演説をはじめた。
吾妻グループの全社員が、記者会見に続いてモニターを注視している。
テーブルもなく、司会者もいないステージ。
ヘッドセットマイクをつけた吾妻勇太がひとり立っている。
機材トラブルでもあったのか、勇太が身振り手振りで何かを指示している。
記者会見を自宅で見たあと出社したポジティブマンは、ぼんやりと吾妻勇太を見ていた。
何度見てもやはり兄がもつ優しい印象は消え、鋭さだけが残っているように思えた。
――さっきテレビに出てた人。あれ……パパじゃない
吾妻さくらの言葉は頭から離れなかった。
コンコン。
魚井玲奈が常務室の扉をノックした。
「どうぞ」
「常務。どうなさいましたか」
「魚井秘書。そこに座ってくれ」
「えっ? もうすぐ中継がはじまりますが」
「ここで一緒に見よう。さあ、座って」
「あ、はい」
魚井玲奈はソファに腰を下ろした。
「今朝の記者会見を見た社員たちの反応を聞かせてくれないか」
兄の吾妻勇太が生きて戻った現実が、まだ夢のようだった。そのため魚井玲奈を使って、社員たちの反応を調べてもらっていた。
「みな緊張した様子で発表を待っています」
執務室のソファに座った魚井玲奈は、モニターを注視しながら言った。
「具体的に教えてくれないか。それは困惑か混乱か、あるいは副会長が生きて戻ったというミステリー小説を読むような好奇心か?」
「正直にお伝えしますと……恐怖です、常務」
「恐怖。副会長が戻ってきたことと、恐怖がどうつながるんだ?」
「恐ろしく思っても仕方のないことでしょう。副会長が戻られたのは喜ばしいことですが、何かこう……強い決意を秘めてらっしゃるような印象ですので。これまでのような温和な笑みがなくなったのも影響しているかもしれません。
朝の記者会見でおっしゃったように、会社を揺るがすような衝撃的な発表があるのではと、みな心配しているのです。常務はそれについて何かご存知ですか」
「いや、何も聞いていない。まだ副会長と話せていないんでな。しかも執務室には誰も入れないよう警備まで配備していると聞いた。携帯メッセージを送ってみたが、既読にすらならない」
「そうでしたか」
「魚井秘書も怖いのか?」
ポジティブマンはソファに座る魚井玲奈を見つめた。
ふと、その場にそぐわない考えがよぎる。
――美しい。肯定的な美しさだ。
ボールのように突き出たおでこからはじまるすべてのラインが、適切な角度で伸びている。アメリカ留学時代に知り合ってから長い年月が経ったが、変わらず彼女は美しかった。
「正直なところ、人事異動を恐れています」
魚井玲奈が本心からそう言っていないことはわかっている。
ただ辞令は出ないという言葉を聞いて安心したいための誘導尋問なのだろう。
「心配しなくていい。魚井秘書は明日からも魚井秘書だ」
「ありがとうございます」
魚井玲奈は笑顔を見せた。
一応の確認事項を済ませたような小さな笑みだった。
「ところで、今朝の記者会見を見ていたときに姪っ子が言ったんだ。あれはパパじゃないって」
「えっ、そんなことを……」
「ああ、とても不安そうに」
「子どもというのは、ときに本質を見抜くことがあります」
「本質?」
「もしかすると副会長の心に根本的な変化があり、それを見抜いたのかもしれません……。あ、私また余計なことを。忘れてください」
ポジティブマンは何も聞こえなかったように魚井玲奈の隣に座りモニターを眺めた。
「ふむ、俺もしっかり見ておかないとな。副会長がいったい何をしようとしているのか」
ステージセッティングが終わったようで、吾妻勇太がようやく第一声を発した。
「親愛なる社員の皆さん、吾妻勇太です。昨日の副会長就任式でも少し触れましたが、我が吾妻グループの将来についてのこと、またそのための基本方針をお伝えするために、今日この場を設けさせていただきました」
「挨拶からして刺々しいな」
ポジティブマンがつぶやいた。
「今朝の記者会見をご覧になったと思いますが、私は長く記憶を失い、とある療養施設にいました。つまり自らのアイデンティティを失った状態で、数週間を過ごしたことになります。施設で心と体を休める間に、私は変わりました。まるで家にある家具を交換するような感じだとでも言えばいいでしょうか。
私は、私を構成する細胞にしがみつく、雑多な異物を取り除くことに成功しました。これから作るべき未来を見つけたのです」
魚井玲奈が無意識にこぶしを握りしめた。
意外にも緊張しているようで、唾を飲み込む音が聞こえてきそうだった。
一般社員にとって経営者の方針変更は恐怖の対象にしかならない。
ポジティブマンはその現実を目の当たりにした。
「私はこれまで、皆さんの努力に対しあまりに無頓着でした。吾妻グループのために日々努力する社員たちの血と汗を、ちゃんと理解できていなかったのです。なぜ我がグループの時価総額が国内のトップ10あたりで停滞しているのか。ようやく私はその理由に気づきました。
私は今日、皆さんに謝罪するためにこの場に立っています。グループの崇高な理想を現実のものとし、利益を拡大できなかったことを。皆さんにより多くの幸せを提供できなかったことを、深く反省しています」
吾妻勇太はその場で深く頭を下げた。
「副会長……」
魚井玲奈がつぶやいた。
執務室の外から拍手の音が聞こえた。
吾妻勇太の英断に対する、社員たちの激励の拍手だった。
「親愛なる社員の皆さん。これからも皆さん努力に報いるため、私も力を尽くします。正しい判断のもとで進められる計画を積極的に支援し、チャレンジ精神を非難せず、旧体制の中に埋もれた悪しき習慣や腐敗を一掃する。
我々吾妻グループは、変化のときを迎えたのです」
再び大きな拍手が鳴り響いた。
しかし先ほどのような歓迎の拍手ではなかった。
「どうしたんだ、兄さん……」
ポジティブマンがつぶやいた。
モニター上では、吾妻勇太が力強くこぶしを突き上げている。
これまでに見たことない兄の姿だった。
「社員の皆さん。変化はいつだって具体的でなければなりません。また即効性がなければなりません。今日この場を借りて、その成果をお見せしましょう。さあ、カメラをあちらに」
勇太の指示を受けたカメラが横へとスライドする。
ステージの端には、4人の社員が立っていた。
3人の男性社員と1人の女性社員で、年齢はバラバラだった。
みな緊張した面持ちで、勇太にちらりと視線を向けた。
「魚井秘書。あの端に立ってるのは、堀口さんじゃないのか」
「えっ? ああ、本当ですね。吾妻建設企画部の堀口ミノル課長です」
静岡県にいるはずの堀口ミノルが、硬い表情で立っていた。
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