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結葉ゆいはが離婚届を役所の窓口に提出するのを見届けた偉央いおは、早々にその場を立ち去った。


今更「さよなら」を言うのも「今までありがとう」を言うのも変だと思ったし、何より愛しい結葉ゆいはが、他の男に付き添われてどうこうしている姿を見たくなかったから。


一度は幼馴染みのあの男から結葉ゆいはを略奪することに成功したはずだったのに、自分はどこで間違えてしまったのだろう?


偉央いお山波やまなみそうを見つめる元・妻の信頼しきった眼差しを見て、完全に自分の敗北だと悟ったのだ。


もうどんなに足掻いても結葉ゆいはが自分の腕の中に戻ってくることはないだろう。


力尽くで閉じ込めたところで、彼女が反発して手の中からすり抜けていってしまう事は嫌と言うほど思い知った偉央いおだ。


そもそも偉央いお結葉ゆいはの身体だけが欲しいわけではなかったから。


不器用な愛し方しか出来なかったと認めるけれど、結葉ゆいはの身体だけを支配するので満足だったことはただの一度もなかったと偉央いおは断言できる。


いつだって偉央いお結葉ゆいはの身も心もギュッと閉じ込めて自分だけのものにしたいと熱望していた。



結葉ゆいは……」


車に乗ってハンドルを握りしめたまま結葉ゆいはの名を呼んでみたけれど、その声はもう決して彼女に届くことはないと分かっていたし、ましてや返事が返ってくることだってない。


ギュッとハンドルを握る手に力を込めると、偉央いお結葉ゆいはたちが役所たてものから出てくる前に車を出した。



***



離婚届の提出は、昼休みを利用して行った三人だ。


ただ書類を提出するだけなのだからそんなに時間が掛かることはないと分かってはいたけれど、出した後の自分の精神状態までは予測不可能だったから。

とりあえず今日は自分には手術も往診も何も入れずにおいた偉央いおだ。


『みしょう動物病院』の裏口からそっと中に入ると、第二手術室で佐藤獣医師が猫の避妊手術をしている最中のようだった。


今日の手術予定は確か三件。

いずれも不妊手術で、雌猫の避妊手術が一件、雄猫の去勢手術が一件、雌犬の避妊手術が一件だった。


猫二匹は佐藤獣医師が、犬の避妊手術は第一手術室で早川獣医師が担当することになっていたと記憶している。



みしょう動物病院では、基本的に手術には獣医師の他に手術をサポートする動物看護師が最低でも二人はつくことになっている。


手術前の機材の準備や動物かんじゃの毛刈り、消毒などはもちろんのこと、術中も看護師には術野を広げる手助けをしてもらったり、手術に必要な機器を手渡してもらったりする。

術後の機器の片付けや消毒、患畜の術後管理など、手術関連ひとつに絞ってみても、動物看護師たちの尽力なくしてうちの病院は回らないと偉央いおは思っている。



いつも大体十二時半から十四時の間に遅い昼食を済ませることになるスタッフたちが、その日の手術件数に合わせて各自が時間を考えて動き始めてくれて、各々割り当てられた仕事をこなしてくれる感じ。


午前中の診療がどのぐらい午後に食い込む形で長引いたかにもよるけれど、基本的にずっと立ったまま仕事をしているスタッフたちにとって、昼休憩は足を休めるという意味でも貴重な休息タイムになっている。


女性ばかりの看護師たちの休憩室を覗くことは、いくら雇い主の偉央いおとは言えはばかられるので、用事でもない限りしたことはないのだが、加屋かや美春みはるがぽろりとこぼした話によると、昼食後はみんなして小さめのマイ枕などを持ち出して、思い思いに机に突っ伏して仮眠を取っていることが多いらしい。


そうやってちゃんと身体を休めてくれて、午後からも頑張ってくれるのだから有難いなと偉央いおは思って。


それと同時、結葉ゆいはには絶対に自分の手伝いはさせたくないとも思ったのを覚えている。


あの華奢な結葉ゆいはが何時間も立ちっぱなしの仕事をすると思うと心配で堪らないし、ましてや昼休憩時間、机に突っ伏して雑魚寝ざこね状態になるなどと言ったこと、どうしても想像がつかなくて。


スタッフたちには申し訳ないが、結葉ゆいはは家でのんびりしているのが似合うとずっと思っていた偉央いおだ。


外に出して、自分の預かり知らぬところで誰かに触れられたり見られたりするのは我慢ならない。


かといって自分のそばに置いて動物病院の手伝いをさせることも無理だと思ったから。


偉央いお結葉ゆいはとの三年間の婚姻生活の中、彼女を働かせず、専業主婦という形で家に縛りつけたのだ。


今となってはそれも結葉ゆいはにとっては苦痛でしかなかったのかなと思って。


一体どう扱うのが正解だったのか、結葉ゆいはと離婚した後になっても偉央いおにはさっぱり分からなかった。


結葉ゆいは以外の女性ならば、偉央いおはここまで執着せずにいられたのだろうか。


歴代の彼女たちのことを思い浮かべてみても、結葉ゆいはほど自分の手の中に囲って外に出したくないと思った女性はいなかったから、きっとそうなのだろう。



***



今日は手術が数件重なってくれていてよかったなと思った偉央いおだ。


偉央いおは第一診察室に引きこもると、椅子に腰掛けてグッと両の拳を握りしめた。


ふと手元に視線を落とすと、未練がましく外し損ねたままになっていた結婚指輪が目に入って、偉央いおは小さく吐息を落とす。


偉央いおは無言で薬指から指輪を抜き取った。

このところまともに食事が摂れていなかったからだろうか。


指輪は思いのほかすんなり抜けて。


そのことがまた、結葉ゆいはとの婚姻生活は偉央いおには〝不相応〟だったのだと言われているようで何だかしんどくなってしまう。


偉央いおはデスクの右端。一番上の引き出しを開けて小さな輪っかを二つ手に取った。


引き出しの中にあったそれは、いま偉央いおが外したのとついになったデザインの小さな指輪と、ダイヤがついた別デザインのもので。

結葉ゆいはがつけていた結婚指輪と婚約指輪だ。


離婚届に判をついた際、結葉ゆいはが緑がかった書類の上にそれらの指輪を載せて偉央いおに返してきたのだった。


偉央いおさんにいただいたものなのでお返しします」


結葉ゆいはは律儀にそう言って、華奢な二つのリングを偉央いおに戻してきたのだけれど。


返されたって、偉央いおだってそれらをどうしたらいいのか分からないのだ。


今自分が外したサイズの大分違う大きな輪と、三つ一緒に並べてみると何とも言えず切ない気持ちが押し寄せてくる。


指輪を外したばかりの左手薬指は、まるでそれをつけるためみたいに指の根本が細くなっていて、肌も日焼けをまぬがれて少しだけリング状に色白だった。


結葉ゆいは


もう偉央いおと繋がるものを結葉ゆいはは何一つ身につけていないんだと思うと、切なくてたまらなくなる。


そういえば、今までは別居していても一緒だったはずの苗字でさえも、結葉ゆいはは離婚と同時に旧姓の「小林」に戻ってしまった。

これは民法が定めるところの「原則復氏」というものにのっとった措置らしいのだが、実のところ偉央いおにはそれさえも結構堪えている。


山波やまなみそうの手前、下手に取り乱すのは嫌で、結葉ゆいはにすら本心をさらけ出せないままに全てを受け入れる形になってしまった偉央いおだったけれど。


心の中は、一見穏やかに見える偉央いおの様子とは真逆。

冬の日本海のように荒れ狂っていた。


辛うじてプライドが偉央いおに妙な行動を取らせることだけは抑えていたけれど。


こんな千々に乱れた精神状態を、誰にも見られたくないと思った偉央いおだ。



***



そんな中、偉央いおは午後からの業務だけは何とか通常通りこなした。

それはプロとしての矜持きょうじの成せるわざだったのだけれど。


元々、偉央いお結葉ゆいはの前を除いて、感情の起伏を余り表に出す方ではなかったし、淡々といつも通り飼い主やスタッフらへの応対も出来たと思う。



手術や往診の絡みで、午後の診察開始時間が夕方に設定されているのもあるかも知れないが、午後の受付終了時刻は十八時にしてあっても、何だかんだで全てを終えた頃には十九時半しちじはん近くなってしまうのが常になっている『みしょう動物病院』だ。


毎日そんな感じなので、スタッフらの昼休みは原則二時間以上確保してあるし、シフト制で早番と遅番を入れ替える形で労働基準法に抵触しないようにしてはいるのだけれど。


実際のところ動物病院というのは結構ブラック企業だなと思ったりする偉央いおだ。


レジを閉めたりカルテの整理をしたり。表のドアにロックを掛けてブラインドを降ろしたり。

明日の業務が軽い清掃等だけですんなり始められるように、スタッフらがテキパキと閉院の支度をしてくれるから、かなり助かっている。


「お疲れ様でした。明日も宜しくお願いします」


タイムカードを押して皆が裏口から出て行くのを社交辞令とともに見送って、偉央いおはさてどうしたものかと考える。

結婚相手を間違えました

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