「さて、行ったな。何が浮気だ。キモいわ」
廊下に顔を半分出してヒラヒラ振っていた手を止めると、有夏はじりじりと室内へ後退する。
大学生の有夏にとっては、今は夏休みである。
もっとも若干のコミュ障と、立派な引きこもりを抱えた有夏にとっては、年中休みという向きもあるが。
自分のことを「有夏」と名前で呼ぶ様からも、彼がかなりのこじらせ方をしているのは想像がつこう。
同じ間取りの隣りの自分の部屋、それからここ幾ヶ瀬の部屋だけが彼の王国だ。
今は朝の6時前。
幾ヶ瀬が戻ってくるのは明日の夜遅くになるという。
その間、40時間ほどはあろうか。
「自由だ……」
フフ……。
──途切れ途切れの低い笑い声が哄笑に変わる。
特撮番組の悪役さながら、ひとしきり笑って。
ノド乾いちゃったと呟いて彼は冷蔵庫を開けた。
コーラとジュースのペットボトルを抱えて部屋へ戻る。
狭い1DKの部屋に置かれた座卓には多数の飲み物と、それから様々なお菓子が並べられた。
ビスコにポッキー、トッポにたけのこの里、それからカントリーマァムとグッピーラムネ。果ては酢こんぶまで揃えてある。
例えるならば「小学生の夢の食卓」(酢こんぶはともかく)。
彼はチョコ系が好きなのだが、夏場は溶けるので控えめだ。
エアコンは勿論27度に設定してある。
1人ならばこの程度が適温なのだ。
そして彼はいそいそとPS4の電源を押した。
「幾ヶ瀬がいるとたった7、8時間やっただけで怒るから。目を休めろとか言って。有夏はお前の弟でも子供でもねぇぞ……ウヒャヒャ」
声色を変えて台詞を叫んでは1人悦に入っている。
有夏、朝から異様にテンションが高い。
コントローラーを握る手が汚れないようにウェットティッシュも用意して準備万端。
明朝までぶっ続けでゲームをする気のようだ。菓子を供に。
ゲームから流れる音楽、コップの中で氷が立てる小さな音。それからエアコンの運転音。遠くでは蝉の鳴き声。
幾ヶ瀬が新幹線と在来線を乗り継いで──3時間ほどかかると言っていたっけ──そろそろ目的の店へ到着した頃であろうか。
ちらりと置時計を見て、有夏はコントローラーを置いた。
「目痛ぇ……」
そろそろ昼メシにするかと、テレビの裏に隠していたカップメンを取り出す。
過剰に食生活に干渉してくる幾ヶ瀬の手前、普段は決して食べられないものだ。
昼は作り置きしているシチューだか何だかを温め直して食べるよう言われた気もするが、そんなことはいちいち考えない。
「はぁ、至福……」
ズズズ……と塩分の濃いスープを飲みほしてから、有夏はコロリとその場に横になった。
腹が膨れたせいか、早起きしたこともあって睡魔が押し寄せる。
「今頃ヤツはこき使われてるんだろな。ざまぁ…」
トロリと重くなる瞼。
近くにあるレストランの厨房手伝いとホールを担当している彼の恋人だが、こうやって出張が入るのは初めてのことだった。
何やかやと抵抗していたものの、結局は仕事が好きなのだろう。
ゆうべ楽しそうに荷造りする様子に、有夏は声をかけるタイミングを失してしまったことを思い出す。
──そういや高校のときも弁当つくってくれてたっけ。
クラスが違うのにいきなり弁当を差し出されたのが、幾ヶ瀬との出会いだ。
彼に下心があったのかどうか。
よく言えばのんき、悪く言えばアホの子の有夏は、毎日のように無自覚に弁当を受け取ったものだ。
──有夏のことが好きだよ。
──ねぇ、有夏は俺のこと好き?
和・洋・中・イタリアンにエスニックといった具合に、毎日趣向を凝らした弁当。
これがなかなかに美味であり、すっかり胃袋をつかまれた頃合いに告白され、そのままズルズルと数年。
気付けば半同居(ヤツは同棲と言い張る!)という今の状態である。
「ダメだ。起きなきゃ……」
せっかくの自由を享受しなくては。
寝てしまっては勿体ないとの思いと、ダラダラ昼寝に興じる背徳感。
その狭間で揺れていた有夏は、しかし意を決したようにベッドにダイブした。
「30分だけ……」
枕に顔を埋めて、両手をバタつかせる。
「……ひろい」
シングルサイズのベッドだが、やけに広く感じるらしく何度も寝返りをうってはため息をついている。
枕には、幾ヶ瀬の髪の匂いが残っているようで。
スンスン。
顔を枕に埋めた姿勢のまま、有夏は動かない。
「へんりひへにゃい……」
──返事、してない。
あのとき、弁当とともに囁かれた言葉。
それから今朝だって。
これまで何度「好き」と言われたか。
なのに、一度だって返事をしていないことに今気付いたのだ。
「らって、そんなのひちいちひうもんらない……」
──だって、そんなのいちいち言うもんじゃない。
今も耳の奥には幾ヶ瀬の声が残っているようで。
目を閉じると、すぐそばに顔が迫っているようで。
いつもならば、その手が有夏の頬に触れる筈なのに。
なのに、今はひとり。
有夏の両手の指は、枕の端を握り締めていた。
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