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薄曇りの朝だった。
壁外調査の翌日、兵舎の空気はいつもより静かで、どこか湿った匂いが残っている。
私は雑巾を絞りながら、石床に残った泥をこすっていた。巨人の血は落ちても、緊張の名残はなかなか消えない。
「そこ、まだ汚れてるぞ。」
低くて、よく通る声。振り返らなくても分かる。
リヴァイ兵長だ。
「あ、はい!」
慌ててもう一度こする。手元が少し震えて、雑巾の水が跳ねた。
兵長はため息をつく。
「焦るな。丁寧にやれ。」
その言い方は冷たいようでいて、どこか棘がない。
私がリヴァイ班に配属されてから三か月。兵長はいつもこんなふうに、ほんの少しだけ私を気にかけてくれる。
——それだけで、胸が熱くなる。
兵長は私の横にしゃがみ込んだ。
黒いブーツが視界に入る。近い。思ったよりもずっと近い。
「貸せ。」
そう言って、私の手から雑巾を取る。指先が触れた瞬間、心臓が跳ねた。
兵長の手は思ったより温かい。戦場では残酷なほど冷静なのに、その体温は確かに人のものだった。
「こうだ。力を入れすぎるな。手首を使え。」
背後から覆うように、兵長の腕が伸びる。
私は息を止めた。
兵長の体温と、かすかに香る石鹸の匂い。
耳元で聞こえる低い声。
「分かったか?」
「は、はい……!」
声が裏返りそうになるのを必死に抑える。
兵長はすぐに離れた。何事もなかったかのように立ち上がる。
「お前は真面目だが、力みすぎる。肩の力を抜け。」
それだけ言って、廊下の奥へ歩いていく。
私はその背中を見つめた。小柄なのに、誰よりも大きく見える背中を。
——兵長は、私のことをただの部下だと思っている。
それは分かっている。
それでも、ああやって触れられると、どうしても意識してしまう。
午後、報告書をまとめていると、窓の外で雨が降り始めた。
「……兵長。」
廊下で立ち止まっている兵長を見つけて、思わず声をかける。
「なんだ。」
「あ、その…怪我は大丈夫ですか?」
昨日の戦闘で、兵長は小さな裂傷を負っていた。ほんのかすり傷。でも私は、それが気になって仕方なかった。
兵長は一瞬だけ目を細める。
「たいしたことはない。」
「でも……」
そう言いかけて、口を閉じる。
出過ぎたことだ。私はただの部下なのに。
兵長は小さく息を吐いた。
「お前は、他人の心配ばかりだな。」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
「……兵長が無理をするからです。」
思わず本音がこぼれた。
一瞬、沈黙が落ちる。
兵長の視線が、まっすぐ私を捉えた。鋭いのに、不思議と優しい。
「俺が無理をしているように見えるか?」
「……はい。」
怖い。でも、目を逸らしたくなかった。
兵長はゆっくりと私の前に立つ。距離が近い。
雨音が強くなる。
「お前は変わってるな。」
「え?」
「普通は俺にそんなこと言わない。」
淡々とした声。でも、どこか楽しんでいるようにも聞こえる。
兵長の指が、私の顎に触れた。
「顔色が悪いのはお前のほうだろ。」
軽く持ち上げられる。
心臓が、喉まで跳ね上がる。
「昨夜、眠れなかったのか?」
「……少しだけ。」
嘘だ。ほとんど眠れなかった。
兵長が負傷した瞬間が何度も頭をよぎって。
兵長の親指が、私の頬に触れる。ほんの一瞬。
「俺の心配をする前に、自分を整えろ。」
低くて、静かな声。
叱責のはずなのに、その響きは不思議と優しい。
指が離れると同時に、冷たい空気が頬を撫でた。
「次の調査まで三日ある。今は休め。」
「……はい」
兵長は踵を返す。
その背中を見送りながら、私はようやく息を吐いた。
恋ではない。きっと、ただの憧れだ。
強くて、冷静で、誰よりも仲間を守る人。
でも、あの一瞬の距離と体温はどうしても忘れられない。
雨がやみ、薄い光が廊下に差し込む。
私はそっと自分の頬に触れた。まだ熱が残っている気がする。
——兵長は、私をただの部下だと思っている。
それでいい。
それなのに。
次の戦闘でまた兵長の背中を追うとき、私は今日よりも少しだけ強くなりたいと思う。
あの人の隣に立てる兵士になれるように。
そして、もしもいつか。ほんの少しでも、兵長の視線が「部下」ではなく「私」を見る日が来たら——
そんなあり得ない想像をしてしまう自分に、私は小さく苦笑した。
兵長の声が廊下の向こうから響く。
「おい、ぼさっとするな。」
「は、はい!」
走り出しながら、胸が高鳴る。
これは恋じゃない。でも、きっと。
戦場よりも厄介な感情が、静かに芽生え始めている。