(あれは……何だ? 何なんだ⁉ あんな化け物……見たことがない)
周りの木々が葉を散らし大きく振動する。同時に夜の森が騒めきだした。それは余りにも巨躯《きょく》で有った。鋭い眼光を放ち、純白に包まれた体毛は、夜露に濡れ闇が満ちた世界でもその存在をはっきりと示し、幻想的な光を帯びていた。口角からはみ出た大きな牙は大鎌の如く、それだけで死を司る死神を連想させた。
(狼……なのか⁉ 嫌っ在り得ない…… 大きすぎる)
ズシンッ‼っと一歩ずつゆっくりと開けた広場に巨躯をさらす。
ビリビリと肌を切り裂く圧倒的威圧感、その圧力だけでその場の空気が重く淀み呼吸をしようとすると、簡単に圧し潰されてしまいそうになる。今まで大きな獣とは幾つも対峙してきた。レオとならば森の主と呼ばれていた大熊でさえ仕留めてみせた。どんな獣が相手であろうとも、俺達に敗北は許されなかった……。何故なら敗北は…… 則ち死を意味するものだから。
しかし、これはダメだ、明らかに次元が違う、世界が違う、人が戦って勝てる云々では無い、いいや、それ以前にこれはきっと間違いなく人如きが触れてはいけない存在……。
御者が言っていた―――
≪…… 災いが訪れる…… ≫
(これが…… そう…… なのか⁉ )
『ほう、我がハティ《眷属》共《ども》をよくもここまで…… うぬは人族の森人か? 』
「―――――⁉ 」
―――頭の中に言葉が響く―――
『この暗闇において弓矢は全て必中…… ハティ共では群れを成しても敵わぬか』
(今‼ 俺の頭の中に話しかけているのは、こいつなのか⁉ )
状況が理解出来ない、思考が追い付かない、ありえない、獣が言葉を使うなどと聞いたことも無い。神話の世界の話だぞ、夢物語の中に出てくる人の言葉を使い、高い知力を持ち、魔法を巧みに操ると伝わる異界の獣。
―――――魔獣。
(魔獣⁉ ありえない…… あってはならない)
―――そんな物が実在する訳がない……
『うぬに聞いておるのだぞ、答えよ‼ 』
口から僅かな炎を吐き出しながら、ゆっくりと頭を擡《もた》げ太い木の樹幹《じゅかん》に身を隠す俺にその鋭い眼光を合わせる。瞳が交差した次の瞬間‼ ドクンッと俺の心臓が大きく跳ね上がり、俺の身体は急激に体温を奪われガタガタと全身が震えだす。同時に平衡感覚が麻痺し眼球振蘯《がんきゅうしんとう》を起こす。
「ヴ‼っげえぇ――――― 」
胃の中の内容物を全て吐き出した。頭痛、眩暈、吐き気、悪寒、幻聴、幻覚、この全てが順番に俺の頭の中を、身体を、目まぐるしく蝕み駆け巡る。
「があぁぁ――― 」
口に付着した嘔吐物を震える手の甲で拭うと血痕が付いた。鼻から血液がボトボトと滴り落ちる――――
―――死ぬ……。
直接身体に加わる状態異常の圧力と、脳に侵入してくる無慈悲な幻聴、幻覚、得体の知れない不利益な情報が、今にも精神と肉体を破壊しようと膨張する。
(頭が爆発する!! )
―――やめてくれ……
耐え切れず樹幹の上で頭《こうべ》を垂《た》れ膝をつく。
(意識が…… 保てない…… 壊れてしまう……。)
全て持って行かれた、この一瞬で、気力、体力、精神力、生命力も、
僅かな希望の光さえも完全に見失った。助かる道筋が浮かばない……
『おっと!すまんな!』
そう、ソレが呟くとスッと目を閉じた。眼光が閉じられると、何かに開放されたように身体が嘘のように軽くなり、全ての負荷が消え去った。
「はぁはぁはぁ…… 」
―――精神攻撃なのか……
(未だ震えが止まらない)
『さて、答えてもらおう、何故、人族で在るうぬが我が結界を越え神域であるこの深き森へとたどり着けたのか、それとこの場所に来た目的を』
(神域だと⁉ )
「おれ…… は…… ごほっ‼ 」
『ふむ、どれ言葉を発する事が難しいようであれば、頭で経緯を思い浮かべてみろ、我が覗き見、理解しよう』
俺は言われるがまま、今までの事の顛末を頭の中に描いた。
『成程な、同族である幼子を救う為であったか、それは大儀であった。我がハティ共がすまぬ事をした、だが、此のもの達も食って行かねばならぬ、それが自然の摂理と言う事も、森人であるうぬであれば理解できるであろう?』
俺はゆっくりと頷いた。冷たい夜露が頬をつたい唇をなぞると、叶わぬ想いにグッと強く唇を噛みしめる。夜露は鉄の味がした……
『では、本題に入ろう。我が結界を突破し此の人族を神域まで導き、貴様は一体何を企む?』
―――――⁉
(何だ⁉ 誰と話をしているんだ⁉ )
『答えぬか……、そうか認識が違っていたようだな。貴様はフィルギャ【追随者】でも無くそれとは相反するモノであるという事なのだな……』
『ならば、この人族がトリガーか…… 』
―――――⁉
『致し方あるまい……人族の森人よ!うぬには恨みはないが、器が満ちるその前こそが我らにとっても好機、我らが前に立ち塞がる前に、その命……。刈り取らせてもらおうぞ』
ざわっとたてがみを立てビリビリと殺気を放つ―――
(―――何かくる⁉ )
周辺が急に無音になりガキンッ‼ と大きく牙を噛み鳴らす‼
『ᚲᚫᛖᚾᚾᛟᚺᛟᚢᚲᛟᚢ‼〈火炎の咆哮〉』
ドォオオオンと辺り一面火柱が立ち上り、一瞬にして焦土と化す‼
(魔法か⁉…… これが魔術…… 何という破壊力‼ )
爆破に巻き込まれる前にロープを投げ渡し、他の大木へと回避していたが、爆風でバランスを失い落下してしまう。
『我が殺気を先読みし退避するか、更に未だ動けたとは驚きぞ!』
すぅっと奴の身体が光り天を仰ぐ、空に浮かぶ分厚く薄暗い雲が割れる。
『これならばどうだ?』
『ᚲᚫᛗᛁᚾᚫᚱᛁᚾᛟᚱᚫᛁᚲᛟᚢ‼〈雷の雷哮〉』
閃光が辺りを包み爆音が耳を劈《つんざ》く、
―――バリバリバリ‼ドンッ‼ドンッ‼ドンッ‼ドンッ‼
天から雷が無数に降り注ぎ、硬い地表を刳《えぐ》っていく、数あるその中の一撃が慈悲も無く俺の足を貫通した。
「ぐあっ‼ 」
―――動きを封じられた……
足が焼け爛《ただ》れ、骨が剝き出しになっている。堪らず激痛に唸りを上げた―――
『終わりだな、生身の身で我と相見えるなど、大したものだ、誇るがよい!うぬが最初で最後の人族ぞ』
「くっ‼ 」
力が圧倒的に違いすぎる、活路を見出せない、無理なのか……。
もう一人の自分が心の中で叫ぶ―――
(また諦めるのか? もう何度諦めてきた?)
―――お前はまた同じ思いをするのか……
(もう駄目だと座り込んだお前に手を差し出してくれたのは誰だ?)
―――思い出せ……
(お前はレオの様に強くなるんじゃないのか⁉ )
「あぁそうだな。やってやる、レオ…… 俺は強くなる‼ 力を貸してくれ‼ 」
―――今度こそ繋いだ手を離さぬ様に……
≪合格だ。助力しよう≫ 頭に声が響く。
―――――⁉
「איך ג’ולמונגנד הוא מקום טוב?〈トコロデヨルムンガンドハゲンキカ?〉」
『なんだと⁉ 』
咄嗟に俺の口から知らない言語が溢れ出た。一瞬奴が怯むと、更に頭に先程の声が響いた……。
≪弓を構え身を任せろ……。頭に浮かぶ羅列を吐け‼ ≫
―――神の囁き……⁉
俺は頭に浮かぶ羅列を口にする。
「זו הרוח〈風よ‼〉」
ゴウッと足元から黒い風が舞う。
『なにっ⁉…… その神息《いぶき》は⁉ 』
自信の身体を黒い風が舞い渦状に回転し、やがて球体になり完全に俺の身体を包んだ‼
≪この球体は攻撃を無効化する。落ち着いて確実に羅列を吐け≫
俺はゆっくりと目を閉じ強く念じ呟く……。
「רפואה שלמה〈完全回復リジェネーション〉」
黒い球体の中で痛めた足が、精神が、気力が、力が溢れて来る。時間が起点に戻って行く感覚……
(これも魔法なのか?)
引いた弓が眩いばかりに光を放ち、矢が弓が、どんどん巨大化して行く
≪恐れるな!その弓は古代魔矢弓……。お前の生命と精神によって具現化される≫
いつの間にか身の丈を越えるほどの光り放つ剛弓となった。不思議と重さは感じない。矢と言うにはあまりにも凶悪であり、攻城戦に用いられるバリスタのそれと類似していた。
≪間もなく風が舞い散る、その時が射貫く千載一遇の好機と思え≫
風の回転が段々と弱まり球体が崩れてゆく、奴の鋭い眼光が視界に入り込む‼先程の恐怖が沸き上がる。
(もう恐れない‼ )
≪奴の魔眼に魅入らされるな≫
俺は敢えて両目を閉じ感覚を研ぎ澄ます。俺は狩人、静寂に包まれた暗闇の中、目視出来ない状況下でいくつも大物と対峙してきた。両目が使えない位でうろたえるな。自分を信じて戦え、此処は狩人の領域だ‼
ふわっと球体が消滅したのが分った。奴の殺気に乱れが感じられる。
「יאללה, האם אתה מוכן להיות ההתחלה של מחזה נקמה?〈サアフクシュウゲキノハジマリダカクゴハイイカ?」
またしても俺の意思とは関係なく見知らぬ言語が口に出る。
『貴様ぁ‼ やはりそうであったか‼ いつの世も、いつの時代も、我らの邪魔ばかりしおって今世も滅却してくれるわ‼』
空気が急激に冷やされ空からひらひらと霜が降り始める‼
『ᚫᛁᚲᛖᚾᛖᛖᛞᛟᛚ……〈氷の……〉』
≪今ぞ‼ 貴様の命を乗せて邪神を射貫け‼ ≫
「おおおおお――――― 」
血管が裂け、引いた腕から血潮が噴き出る‼
まだだ、こんなもんじゃない、俺の渾身の一撃を‼
「おおおおおあああああ――――― 」
今だ‼ 放て‼ もう何も失わぬ強さの為に――――
ドッッッ―――‼
―――ギュイイイイイイイイン‼
空を裂き音速を越え矢じりは熱を帯び更に加速度を増す。矢の軌跡は地表にも溝を作り、螺旋状に暴力的に回転する衝撃波《ソニックブーム》は大木さえも簡単になぎ倒す。カッと辺りに閃光が走ると、爆音と爆風が一瞬で全てを飲み込んだ。
ドゴオオオオオオオオオオオオン‼
天空には大きな竜巻が龍の化身と化し雷を帯びて立ち昇る。
≪よくぞここまで生き延びた、ここは退くぞ、我は力尽きた。ここからは立《た》ち行《ゆ》かん、手負いの奴はこれから本当の奴になる≫
混乱に乗じて夜の闇夜を走り出す。足跡と匂いを残さぬよう縄を投げ渡し木々の上を移動する、奴の手下の狼達はまだ沢山いるはずだ、俺が姿を消したと分かれば必ず追ってを放つ。距離を稼げ、急げ、何としてでもこの森を抜けろ‼ もう既に身体は限界を超えている。
「はぁはぁぜぇ…… 」
暫く木々を飛び越え移動していると、夜明けと共に樹林帯を抜け大きな川の河原へと出た。俺は川に腰まで浸かり匂いを消す。
―――撒いたのか……。
かなりの距離を移動してきた。奴の言っていた結界外には出てるはずだ。結界外にさえ出てしまえば追っても来ないだろう……。
顔を水面につけ洗う、水滴を掌で拭い顔を上げる。
「―――――⁉ 」
ざっと20頭以上……。息を荒げ舌を投げだし、岸から俺を凝視している。かなりのスピードで森を駆け抜け追ってきたのであろう、体には小枝が刺さり傷を負っているものも居る。
どうやら結界を越えると言うリスクを冒してでも俺を今殺しておきたい理由があるようだ。こいつらにとって俺とは何なんだ? そしてあの邪神と呼ばれていた奴はなんだったんだ?
――――奴は追って来ないのか?
じりじりと川面に狼達が迫り寄る。今はじっくり考えてる暇はない。幸いこの川は深い、岸寄りに立つ俺の位置でさえ腰までの水量が在る。狼達ではこの川に入って俺を襲う事は出来ないだろう。かといって、このままでは俺も体温を奪われ続け、やがて状況は悪化の一途を辿る。この急な流れを対岸まで泳ぎ切る体力はもう無い。この腰まで浸かった状態で川上に向かって進むと言う選択肢も皆無だ。力尽き軈《やが》て流される。
―――残された選択肢は……
俺は足を取られぬよう川下に向かい歩き出した。岸辺には狼達がゆっくりと追従する形でついてくる。
―――川下の先に大きな音が聞こえる……
嫌な予感は的中した―――
目の前に大きな滝が姿を現す。予想はしていた、川下を目指せば何時かは大なり小なりの滝にあたると。
足を不意にすくわれぬよう、流れの緩やかな場所から滝つぼを覗く。
これは…… 大瀑布だ。莫大な水量が一瞬にして滝つぼへと吸い込まれて行く。滝つぼからは叩きつけられた川の水が激しく飛散し、水しぶきとなり散ってゆくが、その一連の動作でさえ追い付かない程の水量が、更に高速で落下してくる為、水しぶきはやがて水分を多く含んだ霧へと変わり、滝つぼに霞《かすみ》を掛ける。
飛び込めばまず助からないだろう。では、今の残された体力で20頭もの狼達を相手に出来るか⁉ もう弓を引く力さえ無い。
狼達は死にゆく者の死に際を見ようとじっと動かず凝視している。滝は爆音を轟かせ全ての生物を容易く無慈悲に飲み込む。
(レオならどうする⁉)
―――お前ならきっと……
こうするだろ―――
俺は…… 滝を背に両手を広げ身を投げた。
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